侠客と一口に言つても徳川時代の初期に起つた侠客と其の以後に出た侠客とは、名は同じ侠客でも余程様子が違つて居るやうである。初期のは市人の中の気慨のある者か或は武士の仕官の途に断念した者などが、武士の跋扈に反抗して之を膺懲し或は之に対抗する考へから起つたのであるらしいが、夫から以後、即ち天明前後から天保あたりへ懸けての侠客といふものは多くは博徒のやうな類である。即ち之を分類すれば、徳川初期のは強い圧迫に対する強い反抗の体現であつて、其の物の本当の意味からすれば、強い者に当る必要上真実に強きものたるを主とするは勿論であるが、真実に於ては寧ろ啻に強いことを見得として居る様な傾きのあつた、やゝ虚栄的衒耀的のものであつたらしい。然るに天明あたりからの博徒に至つては、夫れ自らが非常に強い、鷙悍当る可らざるものがあつた。然様判然とした区別は意識的には付かぬまでも、少くとも両時代の侠客には何分かの差違があつたのである。我国で乱離の世と云へば先づ足利の末世を指すのであるが、博奕が此時代から大に盛んになつた。元来戦争其ものが已に一つの大博奕であるからと云ふ訳でも無からうが、梟盧一擲と云ふ冒険的思想は、戦争にも博奕にも通じた同一の根本思想である。此の戦国時代に起つた博奕は、太平の世になつても引続いて勇気の多い、事を好む徒輩の間に盛んに行はれて居たので、尤も元文(吉宗)になつて一度禁制はされたものゝ天明前後(家治)から又た盛んになり、所謂侠客は隠然として博徒の巨魁たる観を呈して居た。
夫れから第三次の侠客は、諸大名の中に何か一つ事が起ると人夫が必要になる、
夫れで古い書物に見える初期の侠客は、「武野俗談」などにあるのであるが、正確の事実は能く解らぬ。之は古の談話製造家が面白く書き出したもので、尤も多少の事実はあつたにした処が正確なことは解つて居らぬ。西鶴も武士とか商人とか色
な階級を一つづゝに纏めて、其の特性
あるが、どうも侠客を専門にまとめて書いたものは一つも無い。近松のものでも全く無いといふでは無いが、後の講談師の述べるやうな侠客は描いて居らぬ。之は一つは地方的関係もあらうが、兎に角初期の侠客の面目は解つて居らぬ。多少雑劇などに残つてる計りで、今日からは精確の状態は知り難いのである。然るに天明以後に顕はれる博徒の事蹟になると、之は多少明白になつて来る。殊に講釈師の飯の種になつて居る博徒は最も多く関東に居り、関東でも甲州、上州、野州、常州などいふ国は、侠客や博徒の名に連れて必ず呼び出されるのは余程面白いことである。之には一つの理由のあることで、博徒の非常に横行する処には必らず有名な山がある。常陸には筑波山、上総には鹿野山、上州には榛名、赤城、野州には日光、甲州には山が到る処にある。而して此等の山の上には山神のあるのみではない、山に相当した駅場のやうな町が建つて居て、其の盛んな所には、おじやれや遊女の様な者までがある。斯うした場所は皆な恰好な賭場の開かれる地であつて、夫れと共に山の上には山の神を祭つた祠がある、此の山の神の祭日は即ち大賭場の開かれる日で、此日は地方近在の博徒の親分子分が皆な集まる許りで無い、素人即ち所謂「客人」が大金を馬につけて運んで来て、賭博を茲に試みるのを楽しみにして居た。つまり中世乱離の頃は戦争と博奕といふものが密接な関係を有して居たのが、末代太平の世には山の祭と云ふものと博奕とが大きな関係を持つやうになつた。又山は上代にあつては所謂
歌
な世話をしたので、益
侠名が隆
と揚つたといふことである。又た後者になると、そんな華
しい処が無いが、矢張り大勢の子分に親分と立てられるには夫れ相応の力量人格がなければならぬ。紺屋町の相政などは其方で名を為した。又た極く近いところの石定(人入れといふではないが)なども
、鯨布の徒である。之によつて見ても、若し侠客の本領は此の殺伐の点にのみ存する様に見るならば夫れは大なる間違ひである。たとへば石定などは釣が非常に好きで能く片舟忘機の楽を取つたものだが、船頭等にさへ其の物やさしい、察しのよい呼吸が如何にも穏かなのをなつかしがられた程であつた。然し当人は東京の盛り場を大抵其の縄張り地内として、その勢力の大したものなるは、其の葬の日に歌舞伎座を使用したに照してもわかる。其処で今日になると、制度も社会状態も著しい変化を来して、昔の様に山上で賭博を公開する様なことは出来なくなり、各地共博奕は衰退の気運に向つて、先に公開的であつたものは今は奥座敷的になつてゐる。之れは一つは警察制度と関係をして居る。即ち昔の博徒の或者などは、一方で公儀の御用殊に警察の用を足して居て、夫れが引続いて明治に至つた。然るに近来は警察の方針が全く違つて来て、あゝ云ふ性質の者はどし/\圧迫して止まぬから、侠客は益
窮境に居るが、自分は
の元気精神を鼓舞することは暫く止むまい。又た事実に於ても此侠客気質の幾部分は、形骸を土木の労働者、鉱山の人夫などに尤も関東ばかりが侠客が跋扈したと云ふでは無い、京大阪にも侠客はある。又た所謂たゞの博徒の種類で侠客と称するには足らぬか知らぬが、十年も前には女の親分さへ山形にあつた位で、福島以北にも可なりの博徒はあつたらしいが、何を云つても関東が一番盛んであつた。今日講談師が地方を廻ると、やゝもすれば其土地の古侠客の話を望まれる。若し有名の親分の話を知らぬ者ならば直ぐ追出され兼ねもしない。所で講談師も商売柄、能く種
の談を知つても居れば、また心ある者は土地の人に尋ねて種
詮索もする。して見れば彼の講談と云ふ物も全く事実の無い事では無いのであるが、若し此処に本当の風俗家が居て、所
を廻つて今の中に侠客や博徒の歴史を尋ねて夫れから支那に侠客が在つたかの問題になると、之は何とも言ひ兼ねる。然し太史公の書いたものもあれば、又其の後のものにも劒侠などいふ者が出没して居るが、支那の劒侠は日本のに比すればどうも神仙的、且つは超世的で、其上之と云つた思想上の社会的の関係が薄い、系統がたしかで無い。然るに日本のは義勇任侠などの血脈が終始一貫して居る。武士に武士道の存するが如く、侠客には侠客道が儼然として居る。之は確かに日本人の間に生じた一特質として、他国に類の無い者と云つて宜しからう。唯だ日本の侠客、少くとも勇み肌の人間に対し、「水滸伝」が陰に陽に感化を与へた、其の勢力の莫大なことを看過する訳には往かぬ。「水滸伝」の翻訳したのは馬琴蘭山を待つて大に行はれたのであるが、其の後盛んに芝居にも行はれ、魯智深、史進、李逵、浪裡白跳張順など痛く彼等の理想に投じたものがあつたらしく、其の背に彼等の花繍などをせぬならば、大哥の面目を損じた様な風を形づくつた。徳川末期の市井の状態の書き物を見ると、斯んな風俗が盛んに行はれた事が解る。又た「水滸伝」に傚つて、「天保水滸伝」何水滸伝と云ふ類が盛んに出て来たことも多少は察せられる。之は偶然な事乍ら一寸面白い現象であつたと思ふ。
(明治四十四年一月)