花火といふ遊びは、金を飛散させてしまふところに多分の快味があるのだから、經濟の豐なほど豪宕壯觀なわけだ。私といふ子供がはじめて記憶した兩國川開きの花火は、明治二十年位のことだから、廣告花火もあつたではあらうが、資本力の充實した今日から見れば、三業組合――花柳界の支出費だけで、大仕掛のものはすくなかつた。
江戸時代の川開きとは、納凉船が集つてくる、五月廿八日から八月廿八日までをいつたものだといふが、納凉舟から打上げた花火の競ひが、一夕、日をさだめて盛んに催されるやうになつたものと思へる。客寄せに岸の割烹店が行なつたよりは、富む者たちが打上げさせた方が、金力が豐だつたことはいふまでもない。
一兩が花火間 もなき光かな
この人數船なればこそ凉かな
と俳人寶井其角は元祿四年にその盛況をよみ殘しておいてくれてゐる。その當時の物價と金の價格を引きくらべたら、一兩はいまのいくらになるか知らないが、其角ほどの人がさう讀んだのは、一兩がかなり高價であつたと見ることが出來る。この人數船なればこそ凉かな
江東一帶は工業地區となり、隅田川は機械油を流しうかべる現今こそ、金の集散は著しいであらうが、昔の大川筋に、物資の力と花火の發達なぞといふのはをかしいやうだが、武藏と下總の
隅田川本流大川に橋のかかつたのは、萬治三年の兩國橋――最初は大橋、または二洲橋――と名附けられ、對岸の深川、本所は(もとの名、永代島、牛島)とうに御府内に抱へこまれてゐて、橋こそなかつたが、芦や
橋のかかつた原因は、三年前の、明暦三年正月、本郷丸山からの大火事に、淺草
この大火の
橋のかからない前の
橋がかかつてからの深川は、府内第一の豪華な歌舞酒地とされた。富岡門前の繁華は、淺草新吉原をも凌駕したといふ。
洲崎茶屋十五六ばかりなるみめかたちすぐれたる女を抱へおき、酌をとらせ、小唄をうたはせ、三味線引き、皷を打て、後はいざ踊らんとて、當世流行伊勢おんどう手拍子を合せて踊り、風流なること三谷の遊女(新吉原)も爪をくはへちりをひねる。
と「
昔は江戸に飯を賣る店はなかりしを、天和の頃始めて淺草並木町に奈良茶飯 の店ありしを、諸人 珍らしとてわざわざゆきしよし、近古 のさうしに見えたり。しかるに都下 繁昌につれて、追々食店多くなりし中に、明和のころ深川洲崎の料理茶屋は、升屋祝阿彌 といふ京都風に傚 ひたるべし、此者夫婦の機を見る才あり、しかも事好、廣座敷、二の間 、三の間 、小座敷、小亭、又は數奇屋鞠場 まであり、中庭 推して知るべし。雲洲 の隱居南海殿 、次男雲川殿、しばしば遊びたまへり。此處殿は、其ころ大名の通人 なり。諸家の留守居、府下の富高の振舞、みな升屋定席、その繁昌比すべきなし。
といつてゐる。洲崎は春は潮干狩、冬の月には千鳥と風流がられた。江戸人は風流心のないといふことを恥辱としたが、風流といふ字は風と流れだ。隅田川筋を唯一の極樂地とし、郊外散歩と遊蕩と社交をかねた人達に、なんとぴつたりした字であらう。
大川横川、名所小航の便、施舫客船日夜織る如し
とある。江戸の大火は、
芭蕉が、
名月や門へさしくる潮がしら
と吟じ、深川に住つてゐたのは元祿のころだつた。
ありがたやいただいてふむ橋の霜
の句がある。この
寶暦十年の秋、濱町といふ所へ家をうつして、庭を野邊、又は畑につくりて、所もいささかかたへなれば、名を縣居 といひて住みそめける。九月十三夜に月めでんとて、したしき人々集ひて歌よみけるついでによめる
こほろぎの鳴やあがたの我宿に月かげ清しとふ人もかな
縣居のちふの露はらかきわけて月見に成つる都人かな
野わきしてあがたの宿はあれにけり月見にこよと誰に告まし
本居宣長、橘千蔭、平春海もこの縣居へ訪れもしたであらう。向島には文人墨客の居住のあともと思ひもするが、大川端の明治座のさきに、名高き文章の博士が住んでゐたことを、土地の人とても多くは知るまい。眞淵は田安家の招きによつて江戸へ下つたのだ。縣居のちふの露はらかきわけて月見に成つる都人かな
野わきしてあがたの宿はあれにけり月見にこよと誰に告まし
風靜叉江不起波 輕舟汎々醉過
天遊只在人間外 長嘯高吟雜掉歌
と賞してゐるが、傾城高尾が舟中で仙臺樣になぶり斬りにされたつるし斬りの傳説もこの天遊只在人間外 長嘯高吟雜掉歌
萬治元年、ここにあつた、本ぐわんじ御堂は築地濱に移轉したとあるから、前年の大火事にもその年の正月の大火にも燒失したであらうが、參詣人は
新大橋の日本橋區
淺草と本所とへ、大川を逆流させると、花火とは誠に趣のちがつたものとなるが、向柳原の町會所のことと、藏前の札差のことを並べなければ、大川のもつ富の半分を書き落してしまふことになる。向柳原は淺草見附けのすぐそばで、
會所の規定は、幕府より一萬兩づつ兩度の差加金を得て、會所の基本元資にし、勘定所用達十人に委託して貸付け、その利子で吏員、用達商人、年番肝入り、名主の手當を給し一ヶ年の町費額を定め、前五ヶ年平均町費を差引き、其減額の一分は町内臨時の入費、二分は地主の増收、七分を積立金とし、明治初年、拜領地、拜借地返上のとき會へ抵當になつてゐた地所を下付されたので、千七百五ヶ所の地所をもつてゐたが、八年にはみんな賣却してしまつた。會所の金穀蓄積は、増大したをりには籾四十餘萬石、金は六七十萬兩あつたといふことだ。
幕府の米倉は、
――家産殷富を占め、勢甚矜豪を持す、當時俗間富豪をさして、札差の如しといふ、以て其盛滿を知るに足る――
と書かれてあるのでも知れるが、札差は一人一軒だけが富有なのではなく、百一人店を並べてみな致富なのだから、勢ひは他の一人立ちの富者を壓したのであらう。この人々の金の捨てどころが深川の
しかし、札差はもとから富んでゐたのかといへばさうでない。ぽんぽち
「大倉の邊に、札差を業ひする豪戸あり、札差は他に比類なき一家業を營むもの」と記されてあるが、この豪戸は、たちまちにして豪戸になつたのだ。他に比類なき一商業とは、計算利益にうとい武士どもがあつたればこそ出來上つた商賣なのだ。
お藏前の通りには、米倉に向つて向側に、手形書替所が二ヶ所あつて、役所には書替奉行といふものが各一人づつあり、ほかに手代が居た。お
――扶持米とは、一人一日の食料をもとにして、米を以て毎月給與する月給で、徳川幕府の定めは、一人一箇月の分が、玄米一斗五升。切米とは、扶持米を數囘に分けてか、又は金錢に
込んでくるのである。さうして、御家人、又は旗本の代理人となつて米を受取り、米を家へ送りとどけたり、殘りを金に代へてやる面倒を見る、それが札差の名の基になつてゐる。札差の手數料は祿高百俵について金壹分、百俵以下は一分を限度として談合のことになつてゐたが、それは表面だけのことで、米相場の高低、秤の具合など、赤ん坊對手の商業のやうなものであつたらう。幕末には幕臣の多くが
江戸の金融は、そのほかに幕府や諸藩の御金御用達があつた。それらの少數の富豪たちの息のかからない藝人、粹人はなかつたといつても間違ひはなからう。畢竟川開きもそれらの人たちからはじまつたと見てもよいかと思ふ。
これだけでもあらかたの、徳川期隅田川筋の物資集散が知れるかと思ふ。
さて、花火のあがる兩國橋は、淺草見附升形を出ると、廣小路には見世物小屋、小屋掛芝居、並び床(理髮)並び茶や、このところ船宿料亭多しと名所圖繪には書いてある。
兩國橋邊[#「兩國橋邊」は底本では「雨國橋邊」]動櫂歌 江風涼風水微波
怪來岸上人聲寂 恰是彩舟宮女過
と詠じたのは、舟遊びをほめあげるために陸には人が居ないやうにいつてゐるし、怪來岸上人聲寂 恰是彩舟宮女過
千人が手を欄干やはしすずみ
の其角は、橋の上の方の贔屓だ。
納凉は五月廿八日に始り、八月廿八日に終る。常に賑はしといへども、就中、夏月の間は尤も盛なり。見世物所せき斗りにして、其招牒の幟は風に篇翻と飄り兩岸の厦樓高閣は大江に臨み、茶亭の床几は水邊に立て連ね、燈の光は耿々として水に映ず。樓船篇舟所せくもやひつれ、一時に水面を覆ひかくして、恰も陸地に異ならず絃歌皷吹は耳やかましく、實に大江戸の盛事なり、俗に川開きといふ即是なり(名所圖繪)
柳橋藝妓はだが、江戸の都市美には田園風景を多分に抱へこんでゐた。いま、江戸憧憬者が惜がるのは、都の中にあつた田園水郷の風趣が、都會的に洗練されて小ぎたならしくないのと、それに織りまざつた豪奢な風流逸事を、現今の生活では、たとへ金があつてやつてみても氣分がそれに伴ひきれない怨みを、美しい追憶としてゐるやうだ。私も震災後の雜ばくたる下町へゆくと、生れ故郷ではあるけれど見たくない思ひがする。それはあまり見馴れすぎてゐた舊文明の
何處やら物悲しく感傷的にさへさせた花火――花火がすんだ暗い川を、遠くに
草原などで、ポーン、ポーンと、青い玉や赤い玉の出るお粗末な花火を上げるのも好きだし、門の凉台であげる線香花火も可愛いと思ふが、兩國の川開きだけは立派な上にも豪壯なのが好い。近ごろでは仕掛け花火を主にするやうだが、河畔に集る人にはそれでよいが、全市を飾る、兩國の川開きなら、何處のビルヂングの窓からでも眺められる、遠景をおもんばかつた、とても雄大な火傘が、つるべ打ちにうちあげられて、空を飾るのが近代都市美の上からいつても本當だと思ふ。そして時間は短かい方がいい。花火もお酒を飮みながら見てゐるとしても、飮みかたも違つて來てはゐはしまいか。麥酒を一ぱいグツと飮むと、パンパン、パンパンパンと空で裂ける音は景氣がよからう。胸がスーツとするだらう。おそらく元祿時代の昔の人は、そんな氣持だつたのだと思ふ。ハツと手に汗を握るくらゐ、氣の弱いものは動悸がするほど目覺しくやつたら、川開きの人氣は兩國の川の上ばかりではあるまい。柳橋三業組合にまかせておかないで、川開き花火を全市のものにすることを、高いところに窓をもつレストランやカフエや、空間の多いビルヂング經營者にもすすめる。高架線のプラツトホームや、省線の窓からの見物なんかも素的な近代風景ではないか。
(「改造」昭和九年七月)