其後ハ益御勇壮ニ奉二恐慶一候。然ニ去ル七月廿七日及八月朔日、小倉合戦
ナリ。)其事を承り候てハ、早
下の関へ出かけ候も、何と
候よしなれども、幕ハ此頃英国のたすけを受候事ハ、毛頭出来不レ申事相成候(これハ小松帯刀が見ツモリ)よし。兼而仏蘭西の「ミニストル」ハ幕府の周旋斗致セしなれども、此頃薩より日本の情実を仏蘭西の方へ申遣し、彼仏国ニて薩生両人周旋仕候ニ付て、江戸ニ来レル仏の「ミニストル」ハ近日国に帰り候よし。(是ハ西郷の咄し也。)此頃薩ハ兵ハ動しながら、戦を未だせざるハ大ニ故あり。先ヅ難ズベカラず。幕のたをれ候ハ
近時新聞ハ先ハ右計也。
追白、此便ニ森玄道ニ申遣セし事ハ実ニ小事件ながら実にむごそふなる
なれバ、森及万稽首
。
。八月十六日
龍
三吉大兄