回顧は老人の追想談になるのが普通で,それは通例不確かなものであることが世間の定評であるようであります.それは当然不確かになるべきものだと考えられます.遭遇というか閲歴というか,つまり現在の事だって本当には分らない.それは当然主観的である.しかも過去は一たび去って永久に消滅してしまう.そうしてそれを回想する主観そのものも年とともに
大学(東京帝国大学)へ私が学生として来たのは1894年――日清戦争が起った明治27年である.西暦のこの数字は,後に引合に出るから,
まあそんな風で,1894年から98年まで四年間の初めの二年間は過した.しかし,当時は相当学風が自由であって,藤沢先生などは,ドイツ仕込みの Lehr-und Lernfreiheit ということを鼓吹されて,なんでもいいから本は勝手に読め,そんなことを奨励されていたものだから,いろいろのものを読んだわけである.殊に三年になると,菊池先生が文部省の方に行って了われたものであるからして,藤沢先生御一人になって,講義の時間が非常に少なくなった.今はそうでもないけれども,一時はずいぶん沢山詰め込み主義の時代もあった.そういう時代に比べると,大分自由であったと
それからまあそんな風にいうと,いかにも不完全なようであり,事実不完全に相違ないけれども,藤沢先生はベルリンでクロネッカーの講義を聴かれたらしいのであって,代数を大学へ入れなくてはならぬということを絶えず言っていられたのであるが,当時日本では,代数は中学校でもう卒業してしまったもののように考えられていた.そこでその後セミナリが出来てからは,そういう処で頻りに代数の問題を与えられた.当時代数といえばセレーの「高等代数」で,それによって,私はアーベル方程式を読めと言われ,そこで謂わゆる高等代数の洗礼を受けたわけである.しかし,その当時,
その中に1898年になって,私はドイツへ留学を命ぜられてベルリンへまいることになりました.それは明治31年で,その年に日本最初の政党内閣(隈板内閣)が出来ることになって,内閣総辞職があったのですが,時の文部大臣の外山正一さんが辞職の際の置土産として,一年分の留学生十余人を一時に発表されて,私も幸いに其の中に加わって,予想外に早く出立することになったのである.
「洋行」は嬉しかったが,その時にベルリンへ行ったならば大変だと
シュワルツもいろいろ講義するのであるが,殆ど講義の度毎に,ワイヤストラス先生が,こう言った,ああ言った,Herr Professor Weierstrass pflegte zu sagen ……云々ということが出る.これはワイヤストラスの数学をそのまま,本当の,正真正銘ワイヤストラス直伝の数学を講ずるという建前で,函数論の講義はワイヤストラス流の無理数論から始めるといった遣り方で,これ少々旧い.このような所は,まあ東京でいろいろ読んだのと大して変わりないのであった.
フロベニウスは年も一番若く,講義はガロアの理論や整数論で,内容は別段変ったことはないが,講義振りは実にキビキビしたもので,ノートなんか持たない,本当に活きた講義といったものを生れてから初めて聞かされたのである.フロベニウスは少し怖かった,というには訳がある.私がドイツへ往く少し前に,ちょうどその頃理学部の少壮教授が数人新たに帰朝された.だからドイツへ往くなら,そういう方にいろいろ注意すべきことを
このように日本人を軽蔑するフロベニウスであるから,フロベニウスの処へ行くなら,その積りで,よく覚悟をして行くがよかろうと,まあ大いに
そんな風であったから,ベルリンに三学期もおったけれども,大してこれということもなかった.尤もあの頃は,今と大分時代が違っていて,文化の喰い違いというようなことが余程甚しかったので,ヨーロッパの生活に慣れるとか,語学の練習とかに時間を費さざるを得なかった次第である.
それから1900年に私はゲッチンゲン大学へ参りました.当時,ゲッチンゲンでは,クラインとヒルベルトの二人が講座を有っていた.講座が三つになって,ミンコフスキが
私はヒルベルトの処へ行ったところが,「お前は代数体の整数論をやるというが,本当にやる積りか?」とえらく懐疑の眼を以って見られた.何分あの頃,代数的整数論などというものは,世界中でゲッチンゲン以外で殆ど遣って居なかったのであるから,東洋人などが,それを遣ろうなどとは,期待されなかったのに不思議はないのである.さて僕が「やる積りです」と言ったところが,「それでは代数函数は何で定まるか?」と早速口頭試問だ.即答ができないでいる裡に,「それはリイマン面で定まる」と先生が自答してしまった.成る程,それに相違ないから,私は「ヤアヤア」と応じたが,先生は,こいつはどうも怪しいものだと思ったろう.それからヒルベルトは,これから家へ帰るから,一緒に
こういう次第で,私の留学は出掛ける時はえらい勢いで出掛けて行ったけれども,帰る時には,すごすごと帰国した始末であった.しかし,例のレムニスケートの一件だけは,幼いものだけれども,論文を書いてヒルベルトに見せておきました.ヒルベルトはそれをドクトル論文と思っていたようだが,当時日本にも相当
1901年に帰って来てからは,いろいろな講義をさせられた.代数曲線とか,その他何をやったか忘れてしまったが,いろいろやらされた.そのお蔭で当時学生であった諸君は,大分フリーの時間が減って皆迷惑を蒙ったことであろうと思う.その裡に,吉江君や,中川君が帰って来られて,私もそういう余計な仕事はやらなくて済むようになった.
全体私はそういう人間であるが,何か刺戟がないと何もできない性質である.今と違って,日本では,つまり「同業者」が少いので自然刺戟が無い.ぼんやり暮していてもいいような時代であった.それで何もしないでいた間に,今の「類体論」でも考えていたのだろうと思われるかも知れないが,まあそんなわけではないのである.
ところが,1914年に世界戦争が始まった.それが私にはよい刺戟であった.刺戟というか,チャンスというか,刺戟ならネガティヴの刺戟だが,つまりヨーロッパから本が来なくなった.その頃誰だったか,もうドイツから本が来なくなったから,学問は日本ではできない――というようなことを言ったとか,言わなかったとか,新聞なんかで同情されたり,
「類体論」の話を少しすると,あれはヒルベルトに騙されていたのです.騙されたというのは悪いけれども,つまりこっちが勝手に騙されていたのです.ミスリードされたのです.
ヒルベルトは,類体は,不分岐だというのであるが,例の代数函数は何で定まるか,リイマン面で定まる――という,そういうような立場から見るならば,不分岐というのは非常な意味をもつ.それが非常な意味をもつがごとくに,ヒルベルトは思っていたか,どうか知れないけれども,そんな風に私は思わされた.所が,本が来なくなって,自分でやり出した時にそういう不分岐などいう条件を捨ててしまって,少しやってみると,今ハッセなんかが,逆定理(ウムケール・ザッツ)と
それから会議が済んで暫くして1921年にドイツへ行って,ハンブルヒ大学へも行った.その頃ハンブルヒはヘッケとブラッシュケの二人であった.私の論文も着いていて,一人女の助手がそれを読んでいるのを見たのであるが,とにかく類体論を一番早く読んだのはハンブルヒだったろうと思う.
ヒルベルトが類体論を読んだか,読まなかったかハッキリしない.ヒルベルトは,1898年位から,例の
hrlich と書き入れがしてある.どうも1920年に受取った論文を25年に初めて読んだのでは,あまり気の毒だから,「初めて詳しく読んだ」ことにしたのであろう.ああ見えても,ヒルベルトは中々細心な所のある人であると思って,可笑しかった.さてヒルベルトが実際その講義をしたのか,しなかったのか,若しやったのならば,筆記がとってあるから,そういう筆記を見た人があるか,無いか,訊いてみようと思いながら,いまだに,その機会がない.それから,話は前後になるが,クラインの事を少しお話したい.クラインの講義は当時非常な人気であった.あの頃のドイツの大学の制度は,講義は自由に聴くことになっていて,聴く講義だけは聴講料を払う.その聴くか聴かぬかを決めるためには,初め六週間位は只聴いていていい.その裡に,いよいよ聴こうと決心したら,聴講料を払う.こういう制度であった.クラインの講義を聴くと非常に面白いが,実は白状すれば,聴講料を私は一度も払わなかった.だいたい六週間位聴いてやめてしまう.それで十分であったのである.この六週間ずつの聴講が,例の五十年の取り返しに大いに役立ったのである.終りまで聴講を続けても,こういう方面には大して有効ではなかったろうと,私は想像している.とにかく講義の初めの一般論が非常に面白い.ちょうど現今の数学の状態を,四十年前にクラインが独りでやっていたといっていいと思う.よくクラインは,「三つの大きなA」ということを言った.それは Arithmetik, Algebra, Analysis の花文字のAである.クラインの意味は,そうと明言したわけでないけれども,そんな風にAの一,Aの二,Aの三などと数学の中にギルドのような分界を立てて,やっているけれども,俺なんかは俺の幾何学でもってそれらを統御するのだと,そういう事らしく,例の六週間を聴いていると,そういう統一的の精神が基調になって,非常に面白く聴かせた.今時青年諸君に,「数学に三つの大きなAがある」といったら承知しないだろう.今は唯一つの小さなaだ.即ち abstract だというであろう.今の数学は抽象法で統制されているが,クラインは既に四十年前に,彼の幾何学的方法を以って,統制を小規模ながら im Kleinen にやって居たのである.だから名前も Klein だ.これは
「回顧」の話が永くなって「展望」の時間がなくなったが,展望などと言っても,固より予言をする訳ではない.まああやふやの展望よりも,むしろ序でに少し回顧を続けよう.数年前,1930年
我々は数学者の流儀は知っているから,学界の名士を集めて歓迎の盛宴を催すなんということはやらなかった.いつも,われわれ同志だけの水入らずの談話会を山の上のバラックや,学士会館の一室で催した.日本式の西洋料理,鱒のフライにプーンと臭いマヨネーズ,彼等はあれを日本料理と思って食っていたのかも知れない.そんな待遇で追っ払われても,みんな満足して帰ったように考えている.そのうちの一人に,その後チューリヒで会ったときに,彼は「日本の数学は,今に二十年も経つと,豪いものになるだろう」というた.それはどういう訳かといえば,「まずアメリカを見給え.二十年前のアメリカは,数学などいうものは殆どゼロに等しかったではないか,それが今日はああいう勢いなんだから,日本も
もう一人は,これもやはり鱒のフライで追っ払われた組だが,日本を去ってから手紙を寄越した.日本の数学には大いに感心した.殊に日本は,若手揃いだ,reich an guten jungen Kr
ften というような文句だったと思う.若手揃いだから,近い将来に彼等がするであろうところの仕事(Arbeiten)に関して,汝を私は今青年諸君の花々しい活動を傍観して,日本数学の将来に大なる期待を持ち得ることを無上の喜びとするものである.
(昭和15年12月7日,東京帝大,数学談話会に於ける講演)
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歴史は反復するというが,第一次世界大戦の後二十年にして,再び世界的の大戦争が始まった.これは反復よりも,むしろ継続でもあろうが,学術上の書物や雑誌の輸入杜絶の時代が再び来たのである.そもそも前の世界大戦後に勃興した現今の抽象数学は,いつとはなしに,古典数学の全面的且つ徹底的なる再検討といった態勢を採るに至ったのである.この新方法は目今未だ緒についたばかりで,それが将来如何に発展するかは,固より予測を許さないけれども,既に今までにも,相当清新にして愉快なる成果を挙げていることは,争うべからざる事実と言わねばなるまい.
(昭和17年1月10日追記)