葬制沿革史料

柳田國男




緒言


 前代日本人の後生觀念、乃至亡靈の去來に關する思想については、記録文獻の偏倚と乏少の爲に、從來可なり大雜把な、甲乙兩立し得ない推斷を許して居たが、是には未だ試みられざる一つの方法が殘つて居た。我々の現在なほ實行して居る慣習の中には、少なくとも一部は新たに制定し又は模倣したので無いものがまじつて居る筈であるが、それを仔細に考察し比較して、それ/″\の由來を尋ねるだけの勞苦を、避けて就かうとする者が無かつたのである。自分は幾度かその弱點を指摘した責任上、終に自ら斯くの如き機械的の整理事務に、當らなければならぬはめになつた。それには近年の地方同志が、各※(二の字点、1-2-22)その地の事實を精細に報告して或程度までの綜合を可能ならしめた懇切なる援助に謝さなければならぬのである。是等の資料のうち、最も有力なるものは盆年越の魂祭行事であるが、この方は稍※(二の字点、1-2-22)目鼻が付きかけて居る。無論明瞭疑無き證據が擧がつたといふのでは無いが、とにかくに民間佛教の導師たちが、訓へ又説いて居る樣には、人はホトケサマなるものを考へて居らず、依然として祖靈は故郷の娑婆を訪問して居た所を見ると、國内普通の信仰に於ては後生は別に有つたといふこと迄は言へさうである。葬制の方面には複雜な儀式ばかり多く、その背後に在るものは幽かにしか顏を出して居らぬから、まだ/\反對の説にも都合のよい事實が取上げられる樣に見えるが、それでも細かに注意をして居るうちには、僧侶の管轄し得ない問題の、弘く國中に共通して居ることだけは判つて來るであらう。結論は學者も戒愼して、さう早急に下さうとせぬ方がよいが、問題だけは囘避せぬやうにしなければならぬ。さうして自分はたゞその問題を算へ上げようとして居るのである。この以外にも更に痛切なるものが、續々として現はれて來るかも知れぬが、現在知られて居る一部分の事實からは、是だけのものが先づ注意せられるすべてゞある。大體のところ帝國の舊版圖の、面積二十分一ほどの土地の最近の實況が、ほゞ半分ばかり報告せられて居るものと見ればよからう。願はくは此問題の掲出によつて、それら殘りの地域の向學心を刺戟し、次々是と一致し又は背反する新事實が、今後の學徒の利用に供せられるやうに、この小さな勞苦を役立たせたいものである。私は是まで婚姻の風習、又は年中行事などにも同じ方法を以て、將來の調査の標目を列記して居る。趣旨は全く學問の山口を開けることに在る。是を以て直ちに全貌の發見の如く、誤解する人があつたらその人は不幸な學者である。しかも是だけの事實すらも知らないで、何か判つた樣な氣持をもつ者がもし有つたら、それはもう一段と氣の毒な人であることも亦確かである。

一 喪の始め


 死者の肉親が、いつから喪に入るかはまだ明らかになつて居ない。一旦呼吸が切れてもそれだけではまだ死んだとは解し得られないからである。醫者の宣告があつても、妻や兒はまだ名を呼ばずに居られない。實際壯年や少年には、氣が絶えて又吹返す例もあつた。しかし其試みとは別に、是非とも魂呼ばひをしたのは儀式である。支那で「哀を發する」といふなども、やはり亦全く事きれたと思つた後に、若干の期間があつたことを推測せしめる。恐らくは是とよく似た儀式を必要として居たのであらう。日本でも其時間が追々と短くなつたらしい形跡がある。

モトツケル

 といふ語は語義はまだ不明だが、肥前島原あたりには行はれて居る(葬號一六六頁)。病人斷末魔に近づくとき、彼と一番近い者、親ならば子、夫であつたら妻が、大きな聲で其名を喚ぶ、それをモトツケルと謂ふさうである。

マスウチ

 會津地方では人が死にかゝつた時、其家の屋の棟に登つて一斗桝を伏せ、棒切れなどを以て敲く。是を桝打ちと名づけて魂の拔け去るのを抑へ、元へ戻す意味だと謂つて居るが、多くの場合は死の豫告である爲に、其音は哀れに聽えるといふ(郷土研究七卷三號)
 桝の底を敲く呪は子供などが神隱しに遭つた場合、是を搜しまはる者が行ふ地方もある。是にもやはり近親の者が敲くを例とする。或は又當人の日頃用ゐて居た食器を、箸で叩いてあるく處もあるから、桝もやはり人間の魂を此世に繋ぐ食物の力から導かれて居るらしいのである。魂喚ばひの行はれる必要は、或はそれが一旦元の體から離れて、尚その近くにさまようて居る時刻の方が、一段と適切であつたらうとも思はれる。斯うして病室より外で桝を敲くなども、去り行く魂を喚び返す方法としか思はれぬのだが、後にはまだ片息のあるうちから是をする樣になつて、桝で抑へるといふ説明も生じたものらしい。自分などの生地播磨中部でも、末期に先だつて庭前の松樹の梢へ、提灯をともして登り、おうい/\とわめく風があつたが、是を何と謂つたかは記憶して居ない。東京から西に見える武相の山地では、定まつた岡の上に登つて魂を喚び、そこを呼はり山といふとの話も聽いたことがある。他の地方の類例は數多く集めて見なければならぬが、元は事きれときまつて後に、尚一應はこの式を踐んだのではないかと思ふ。因みに本居先生の玉勝間卷十に此問題が説いてあるのは參考すべきものである。野府記萬壽二年八月七日の條に、尚侍嬉子隱れたまひて後三日目に、陰陽師恆盛外一人がその屋上に昇つて魂呼をしたことを敍し、「近代不聞事也」と附記して居る。公家の日記類を注意したら、上流の古い慣行は此他にも尚見つかることゝ思ふ。

二 葬式の總名


 人の凶事の始から終り迄を、一括した名前はまだ知られて居ない。古い日本語でもモといふ語以外に、何か有つたかどうか私には明らかでない。現在の用語も地方毎に區々であるが、大抵は其中の最も主要なる作法、即ち家から葬地までの行列の名を以て、全體を覆ふことにして居る。ジャンボンとかジンカンとか又ガンモモとか謂ふのは、殊に印象の深い樂器の音であつて、多分は小兒の語を隱語のやうに採用したものと思ふが土地によつては是より外の正常の名の無い處もある。平生忌む語なるが故に屡※(二の字点、1-2-22)傳承が絶えたものかと思はれる。
 東京などのオトムラヒといふ語は、よく考へて見るとやはり一種の忌詞らしい。トムラフといふのは葬後の供養のことなのだが、今では是を行列とも、又葬式の全部とも解して居るのである。トリオキといふ語は處理もしくは後始末といふ意味だから、總稱として似つかはしい語であるが、近畿中國では之を法師の引導の意味に、四國の一部では所謂湯灌の意味に、却つて之を限定して使つて居る。或はわざと用語の精確を避けようとでもしたのではないかと考へる。東京のオトムラヒに近い名稱は、隣接地域にはあまり無くて、薩摩の下甑島の一隅に、

トヒオクリ

 といふ名がある。但し是も今は老人たちの間にのみ知られて居るといふ(葬號一九〇頁)。單にオクリといふ語を葬送の意味に用ゐると、もう其語は他には使へなくなる。其不便を避ける爲に限定辭を冠せたので、或はトムラヒの方も元はトムラヒ送りと謂つたのかも知れぬ。

ノオクリ

 單に送りと謂つて居る土地も無いわけでは無いが(小豆島方言など)、普通には野邊送り、又は野送りといふ語が弘く行はれ、又比較的古かつたやうである。葬地をノと謂つたのは理由のあることだが、それは後節に詳しく説かねばならぬ。

ミカクシ

 身隱しはことによると以前の總名だつたかとも思ふが、現在は稍※(二の字点、1-2-22)限られたる場合にしか使はれて居ない。たとへば海で死んだ亡者が明るみに在ることを厭ひ、磯に投げ出されて人に氣づかれずに居る場合に、夢などに現はれて身隱しをしてくれと頼むことがあると、長門の島々では謂つて居る(櫻田勝徳君)。又信州南端の或山村では、村の祭禮に臨んで死人があるとき、それを内密に葬つて置くことだけを身隱しと謂つて居る(山と民俗)

カゲカクシ

 是から下流の遠州阿多古の山村でも、密葬もしくは假埋葬だけを影隱しと謂つて居る。爪とか頭髮とかを殘し留めて置いて、本葬の折には是を棺に入れて送るさうである(能田太郎君)

チリヤキ

 駿河志太郡では野邊送りをチリヤキといふ名がある(内田武志君)。其語の起りは今は全く考へ出せない。他の類似の例の集まつて來るのを待つて居る他はない。

タタキダシ

 信州の埴科郡(民俗學三卷一號)、又更級郡の一部には斯んな語も有る(方言集)。敲くと云ふのは葬列の樂器か、或は又特にこの樣な憎々しい名を用ゐる必要があつたのかも知れぬ。なほ此序に死者を意味する色々の隱語を、集めて見るのも參考にならうと思ふ。

クニガヘ

 といふ語は以前大阪の周圍などに行はれて居た(東成郡誌)。仙臺でも古く都參りといふのが葬禮のことであつた(方言以呂波寄)。伊豫の今治では「廣島へ煙草買ひに行つた」とか、又は大阪へ何とかしに行つたとかいふのが、死亡を意味する隱語であつた。

オヒマク

 紀州の東牟婁郡では、人の死んだことを笈卷くと謂つて居る(縣方言集)。笈は旅人の用具で之を卷くとは出立を意味する。熊野は夙くから、山伏の死ぬことを、金になるなどといふ忌詞のあつた土地である。

三 訃報


セッカクヅカヒ

 人の終りが近づくこと、近親に是を知らせる習はしは弘く存するが、會津などでは其報知を折角使と謂つて居る(若松市郷土誌)。此使を受ける者の範圍は、死使よりも又遙かに狹い。つまり末期の水を取り、魂喚ばひに參與しなければならぬ人々である。

シニヅカヒ

 愈※(二の字点、1-2-22)喪に入つての最初の事務は、一定の親戚へ知らせの飛脚を立てることで、組合近隣の者が是に任ずる。遠州では之を死使と謂ふさうである。

シニビンギ

 三河西加茂郡などでは、是を又シニビンギと謂ふ。少しの支度も無しにすぐに立ち、日の中でも提灯を下げて行く。受けた家では時刻の如何によらず必ず其使に食事をさせる等の、色々の此時に限つた作法がある(民俗學二卷四號)

フタリヅカヒ

 常陸の行方郡では、此使を特に二人使と呼んで居る。必ず草鞋ばきの二人連れで、途中どこにも寄り路をしない等の定めがある(風俗畫報四四八號)。この二人連れといふことは、殆と全國的と謂つてよい程に、一般的なる習俗であるが、其理由はまだ私は聽いたことが無い。能登の七尾地方では、産にトウナイの女房を頼みに行く場合にも、やはりきまつて二人づれで行くといふ(諏訪藤馬君)

キカセト

 千葉縣は一帶にこの通知の役を聞かせ人と謂つて居るやうである(匝瑳郡誌)

ツゲヤク

 信州では是を告げ人と謂ふ所もあり(北佐久郡誌)、又告げ役とも謂つて居る。庚申講の仲間などが此役を引受けることになつて居る(北安曇郡郷土誌稿卷三)。其使は通例亦二人一組である。上伊那でも是を告げに行くといひ、告げに來た者にはたとへ茶一杯でも、何か飮食させて返すことになつて居る(民俗學四卷三號)

ヒツゲ

 壹岐で此役をヒツゲと謂ふのは、忌を「ヒがかゝる」と謂つて居るからである。死者の血族は常人と食事の火を別にし、其火は穢れて居るものと考へられた。それ故に忌のことを火とも謂ふのであらう。血族は從兄弟までは此火告げを受ける。此使も講中の仕事で、必ず二人で行くことになつて居る(壹岐島民俗誌)

タヨリヅケ

 九州の北部は肥前筑後肥後等、共に此使を便りづけと謂ひ、必ず二人連れである。或はタヨリとのみ謂ひ、此使を出すことをタヨリをつけると謂ふ土地もあるが、語のもとはやはり告げであらう。阿蘇では又押立て使とも呼んで居る(葬號一七〇頁)

オト

 周防の柳井邊ではオトと謂ひ、オトを言つて來たなどといふさうだが(森田道雄君)、其オトもやはり音であらう。別に變つた語では無くとも、後には凶事專用になつてしまふのである。

トムラヒビキャク

 靜岡附近では東京同樣に知らせともいふが、又とむらひ飛脚とも謂つて居る(安倍郡誌)。三河の中部ではたゞ飛脚といつても此使のことである(額田郡誌)

アカシ

 といふ名稱も亦駿河にはある(方言辭典稿)

トドケ

 常陸新治郡では、死亡と葬式の時刻を告げに行く二人一組の使を屆けといふ(民俗學三卷六號)。東京の近く北多摩郡にも同じ語はあるが、今では近親以外の會葬をトドケに行くといふやうになつて居る(高橋文太郎君)。元は一つで無いかと思ふ。陸前栗原郡などは、嫁聟の里方其他の縁續きの家の不幸に、親類打揃うて行くことを、トヅケに頼まれて行つたといふさうだが、是も報知を受けて會同するからの名であるらしい。葬儀の參加者は組中と親類だけであつたのが、追々その範圍の擴張を見ることになつたやうである。
 何故に必ず二人で行くかの理由は、まだ名稱の方からは之を窺ふことが出來ない。奧州の九戸郡では、一人で行くと死人が後からついて來る。故にもし一人で行かねばならぬ際には、腰に鎌を下げて行くといふ(方言と土俗一卷四號)。是は其まゝでは會得し兼ねるが使に行く者は本來「忌」に參加せぬ人であり、知らせる相手方は之に反して、當然に忌のかゝる人であることを考へると、或は二人といふことは忌の力に對抗する趣意とも解せられる。上總の夷隅郡などでは聞かせ人に限らず、葬儀の準備事務はすべて二人づゝ一組になつてすると謂つて居る(郡誌)

四 寺行き


テラアカシ

 右の推測をやゝ力づける事實は、次々に尚現はれて來る。其一つの場合として僧侶はどうなるといふことを考へて見る。所謂菩提寺へは親族への通知と同時に、やはり近隣の者が行くことになつて居る。それを寺行きと謂ふのが普通であるが、信州諏訪などでは又寺アカシとも稱し(葬號七〇頁)、是にも訃音を意味する特別の語を用ゐて居る。目的は期日の打合せ、墓地の下檢分の如き事務的のものゝ樣に解せられて居るが、さうとばかりは見られない食物運搬の方式があつた。

オカツゴ

 例へば能登の鹿島郡では、死亡後直ちに夜なれば翌朝、親戚中の重立つた者が、白米二升を携へて檀那寺へ、死者の案内と葬儀の日取とを告げに行く。此際に持つて行く米をオカツゴと謂ふさうである(同上一九〇頁)

キツガケ

 是等の言葉には、何かしらぬが此習俗の起りを含んで居るらしく感じられる。薩摩甑島の瀬々浦などでは、此米を又キツガケと謂つて居る。人が死ぬとそこに居合せた婦人が一人、早速二合五勺のキツガケの米を持つて、寺へ行くのださうである(同上一九〇頁)。但しこの米は同時に又親族の方へも持つて行くらしい。報告の文はごく明瞭では無いが、親族へは子供を走らせるとある。さうして其通知をしてあるく者が、只今誰それが死にましたと報告して、其印までに重箱に入れた米を置いて行くのがキツガケだと謂ふ。寺だけには限らなかつたらしい語氣である。此點はもう一度たしかめる必要がある。

オハナゴメ

 豐前築上郡でも米一升に十錢を包んで寺へ通知に出かけることになつて居る。其米をオハナ米と謂ふとある(葬號一六四頁)。御花米は祭典その他儀式用米の總稱で、葬事の場合に限られた名でも無いが、此地方として注意すべきは、同じ際に親類縁者から、若干の錢の包みと共に持つて來る一升の米を、やはりオハナ米の名を以て呼んで居ることである。即ち死者と共に食ふべき食料にも同じ名が有るわけである。講組の者からも同じく米一升を重箱に入れて持つて來るが、此方はオハナ米と謂はぬらしい。以前は其中の一つまみだけを、オッパン米として請取り、他は返したのだが、近頃は全部貰ひ受けることになつて居るといふ(同上)。このオッパン米の意味が明らかになつたら、三種の贈遺の異同を知ることが出來ると思ふ。

オハチゴメ

 肥後の阿蘇地方ではオハチ米の語がある。前者とよく似て居るが一方が誤植といふわけではあるまい。こゝでは會葬者持參の米一升をも御鉢米と謂つて居り、葬式翌日に導師への禮として、寺へ贈るのをも亦さう謂つて居る。是は米一俵香料一封の外に、特に御鉢米として米一升を添へるのだから(同上一七五頁)、或は通知の日に持參した習はしが、是へ移つて居るのかも知れない。

コンブクロ

 越後西蒲原郡では、寺又は葬家へ贈る米の袋を特にさう謂つて居る。色々の布切れを縫合せた美しい袋である(里言葉)。是もたゞ小袋の意で凶事に限られた名でも無いのだが、一旦斯ういふ場合の用に供すると、自然に他では言はぬことになるのである。

ヒヂ

 九州南海の喜界島では、凶事の通知をヒヂと謂つて居る。血族關係の無い近隣の人の任務として、戸主の指圖を承けて親類へヒヂを持ちまはるからさう謂ふらしい(葬號一九九頁)。持ちまはるといふ所を見ると、爰でも甑島の樣に食物を携へて行つたらしいのである。忌火の條下に再説するが、鹿兒島縣には香奠をヒデといふ語がある。ヒヂも是と同じ語で、現在は取り遣りが逆になつて居るけれども、身内の人々だけに是から忌の飯を食はせようとする趣旨で、その共同の食料を通知と共に運んだものと思ふ。さうして他の地方ではその忌火料を、寺の和尚にまでも分配して居たのは、彼等のみは喪屋の穢れに混ぜしめる意味らしいが、この人々はそれに格別頓着せず、之を一種の收入とし權利として、親類へは送らなくなつた後までも、是だけは止められなかつたものと思ふ。

五 枕飯


ザシキナホシ

 外に對しては告知が喪の開始であつたと共に、内に於ても亦一つの改まつた作法が認められた。座敷直しといふ語も喜界島でしか採用せられて居らぬが、是に該當する氣持だけは全國的であつた。島では人が死ぬと其夜の明方近くに、病室から是を表座敷へ移し、屏風又は戸障子で其周りを圍ひ、其枕元には香と水と、白飯と汁などを供へる。家族を始め再從兄弟までが、其左右に侍するを悔み人と謂ひ、一二の代表者が屏風の外に居て、訪客に應答するのを挨拶人と謂ふ(葬號一九七頁)

マクラナホシ

 此を枕直しと謂ふのは、或は今日の標準語かも知れぬ。普通は此時に特に北枕西向きに寢させる。阿蘇地方なども中國四國と同樣に枕直しといふ語もあるが、一部では又寢せ直しと謂つて居る(同上一五六頁)。薩摩の宮之城では之を枕はづしと謂ふさうである(同上一八五頁)

マクラガヘシ

 能登半島では枕がへし、又オギョウギといふ名もある。死體の下肢を曲げて入棺に便ならしめる故に御行儀である。寢床の上には刃物を置き、逆さ屏風を立てまはし、所謂紙花しかなどを用意して僧の來るのを待つのである(珠洲郡誌)。安藝の佐伯郡などでは、僧侶の枕經のことを枕返しと謂つて居る(葬號一三七頁)。肥前島原地方のマクラゲシは、近所の者が寺へ知らせに行くことであつた。息を引取ると同時に佛壇には香を焚き、米と若干の賽錢を持たせて、寺へ行つて貰ふので、此使者を枕ゲシ持ちと謂ふから或はその米錢が枕ゲシであつたのかも知れない。枕ゲシ持ちには死者の魂が附いて寺に行くといふので、相當に重要な役となつて居る。途中人に逢つても物を言はず、人もよく是を察するといふ(同上一六六頁)

ハブッサジ

 喜界島では多分座敷直より前に、先づツブシ即ち膝を曲げ括り、次に新しい手拭を以て面部を蔽ふのだが、其をハブッサジと謂つて居る(葬號一九九頁)。サジは即ち手拭のこと、ハブッは「はふり」かと思はれる。死水を取るといふことの無いのは注意に値する。

カブリキモノ

 阿蘇の宮地などでは枕直しの後に足を曲げさせ、其上に最上の美衣を逆さに掛ける。衣類を多く掛けるが、其中の一枚だけは必ず逆さにする。年をとつてからよい着物をこしらへると、被りギモンを作つたなどと蔭口せられるのは是から出た言葉である(同上一七七頁)

ハヤオゴク

 豐前築上郡では、病人が息を引取るとすぐに北向きに寢させ、同時に家人は早オゴクと謂つて、白飯を炊いてその枕元に供へる(同上一六四頁)。ゴクは御供で食物を意味する敬語である。

マクラメシ

 是を枕飯と呼んで居る地域は廣いが、よく見ると此語にも少しづゝの意味の地方差がある。最も普通には右の早御供の如く、喪の開始と同時に供へるものをさう謂ふやうである。例へば長門の相島では人がすくばると直ぐに枕飯を炊いで丸い握飯となし、膳の上に茶碗を載せて其中に供へる。ホトケは死ぬとすぐに信濃の善光寺に行くので、その行つて戻つて來る迄の間に、枕飯は作つて置かねばならぬと謂ふ(櫻田君)。阿蘇の宮地では是をオテツキノオボクサマと謂ふが、やはり少量の米を飯に炊いて、少しでも殘らぬ樣に盛りつけて供へる。殘すと死人の爲に惡いと謂ひ又早く上げないと亡者の善光寺詣りが遲れるとも謂ふ(葬號一七七頁)。この善光寺は熊野では那智の妙法山に參るとも謂つて居る。亡靈は暫く故の家の附近に留まると謂ひつゝも、何處かへ一度は行つて來るやうな信仰があつたらしいのである。オボクは佛供とも解せられて居るが、やはり御供の轉訛のやうである。オテツキは落着きで、外から來た者に先づ供する食物を意味する。從うて是も善光寺へ出發する前といふのは誤解かも知れぬ。阿波の名東郡で枕の飯といふのは、湯灌の直ぐ前に供へると謂つて居る。しかし死者生前に使用した茶碗に高盛りにして、箸を添へて使者の[#「使者の」はママ]枕頭に供へる點は(同上一四七頁)、他の地方も同じことである。

ゲダキノママ

 筑前の大島などは、枕飯は戸外に石か瓦で簡單な竈を築き、是で炊いで佛前に供へる。其燃料は軒の藁を焚付とし、葬儀用具を作つた木ぎれを薪にする。是をゲダキノママと謂ふのを下炊の飯と記して居るが(葬號一六二頁)、或は外竈だから外炊きかも知れぬ。但し此枕飯は葬具などを作つてから後のものと思はれるが、果して其前には無かつたのであらうか。三河北部の山村でも、枕飯は屋外の厩舍の脇などで、梯子を立て掛けて繩を下げ、それに鍋を吊して炊ぐ習ひである。米をさきに鍋に入れ水を後から注いで洗ふ等、片端から常の日とは逆さなことをする。此飯を炊ぐのは穴掘り役の仕事となつて居る。飯が煮える間に穴掘りは一枚のから莚をしき、二人其上に居て一足づゝ草鞋を作る。この草鞋だけはヒキソ(縱繩?)をあやにしない。是が葬式の日の棺持ちのはく草鞋になるのである。この枕飯は飯茶碗に山盛りにして、箸を眞直に立てゝ供へることは他の場合も同じだが、穴掘り役が定まつてから炊かせるとすれば、枕直しのすぐ後では無かつたらう。それでもやはり此飯が早く出來るほど、極樂へ早く行けるなどとは傳へて居る(設樂昭和八年六月號)

オタカモリ

 御高盛は人間の一生に三度は必ず供せられると謂はれる。成程誕生の日の産飯も、婚禮の日の夫婦相饗の飯も共に盛り切りで、信州諏訪などは三者名を異にせず、枕飯をもやはり御高盛りと謂つて居る。死者の嫁娘たちが手に/\少しづゝ盛り添つて、しまひには大へんな高盛りになる。此椀には三角形の白紙が貼り付けられてある(葬號七二頁)

ヒトモリメシ

 一盛り飯といふ名は、九州東松浦郡に行はれて居る。加部島では是に木の箸を立て、唐津では竹の箸である。此飯は最後に墓の中へ納めるのが此地方の習はしだといふ。盛り切り一杯飯は特別の食事、他の人々とは分配しない趣旨かと思はれる。常の生活に是が忌まれるのも、必ずしも凶事の聯想だけからとは言はれない。

イッパイメシ

 筑前相島などの一杯飯は、湯灌がすみ死者を甕に納めてから、其前に供へることになつて居る。この盛り飯の上には木と竹との箸を添へるといふ(櫻田君)。是と枕飯とは別のものかどうか、何度も供へかへられるか否かの點は、重要であるがまだ各地とも精確に調べられて居ない。思ふに以前は野送り前の期間が短かゝつた故に、普通は一度の供飯で濟んだのであらう。それを改めたとすると前のものはどう處分したかゞ問題になる。この方面から尋ねて行つたら、まだ/\明らかになつて來ることが多からうと思ふ。

ジキノメシ

 大隅の肝屬郡では、一杯飯を又ジキの飯と謂ひ、墓まで持つて行つて供へる。三河北設樂などの枕飯と同じく、やはり家の外で炊くのである。米は三合、その米をさきに水を後から入れて磨ぎ、物干し竿を薪として焚き、まだおもれぬうちに椀に盛り、ソバ膳にして供へる。それを野邊まで持つて行き、埋葬と共に壙に入れるといふ(葬號一八八頁)

ミチメシ

 肥前平島などでは、枕飯を死人の道飯と謂つて居る(櫻田君)。是は明らかに枕上に供へたものを、次の世界まで持つて行かせるので、その考へ方は盆の魂送りの土産團子とよく似て居る。

ガキメシ

 佐渡の河原田などの例では、死者に飯を供へる際にも盆の精靈棚と同樣に、別に小皿に少し取分けて置き、是を餓鬼飯と謂ふ。しかもホトケの飯も人間は決して食うてはならぬもので、餓鬼に遣るものだと謂つて居るさうである(葬號五五頁)。此問題は次の出立ちの飯、又は墓前の食物とも關聯して居る。三つの場合を併せて考へて見なければならぬ。

ハヤダンゴ

 青森縣の野邊地あたりは、枕飯の代りに枕團子をこしらへる。是を又早團子とも謂つて居る。粳米をさつと洗ひさつと搗いて丸めた團子で、すぐに之をうでて供へる。だから常の團子は搗いた日にうでることを嫌ひ、必ず二日に跨がらしめるのである(同上三七頁)

イッパイダンゴ

 同じ外南部でも八戸市附近では、是を一杯團子と謂つて死者があれば先づ造る。一杯といふのは穀を量る器に一つのことで二合五勺である。此米を粉にして拇指ほどの大さに丸める。葬式の日にも是を携へて行き、墓づとめが終ると是を茶と米と共に水に混じ、半紙一枚をひろげて其上に注ぎかける。是をアラネコスルと謂ふのは、この小さな團子を霰に見たてたからで、盆の墓參りのホカヒとも同じ作法である。此アラレを烏が啄み食うてくれぬと、後が續くと謂つて大きに氣にかける(葬號三二頁)

シトギ

 粢といふのは米の粉をこねて作つた生の團子のことで、別に凶禮の食物と限るわけは無いのだが、備中の府中邊では人の死んだとき、糠の附いたまゝの米を粉に挽いて卵形の團子に丸め、蒸さずに供へるものゝみをシトギと謂つて居る(方言集)。秋田縣の仙北地方でも、シトギといへば枕團子のことに限るといふ話だが、果してさうであるか。東北でも他の地方はシトギは生粉の團子のことで、又煮シトギといふ語もあり、めでたい日にも拵へるやうである。

マクラダンゴ

 枕團子は枕飯と重複して、又は前後して共に作る土地も多いやうである。相州津久井邊では、死者の枕元に六つの團子を置き供へる。本來は内庭へ梯子を逆さに掛け、臼を左※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りにまはして白米の粉を挽いて拵へたものだが、近頃は大抵米の飯を丸めたものを以て代用する。之を食ふと度胸がよくなるといふ(葬號八三頁)。佐渡の河原田町の枕團子は、死人があつて寺行きの使を出す前に勝手元で之を作る。其數は四々の十六箇、老人の枕團子は其齡にあやかりたいといふ者があつてよく盜まれる。何度供へても一つも無くなることがある(同上五三頁)

オクリダンゴ

 三河の北設樂郡などは、枕飯も送り團子も共にこしらへる。送り團子の方も早く出來るほど死人が早く極樂へ行かれるといふ(設樂昭和八年六月號)。南設樂の方は埋葬の際の供物として、稍※(二の字点、1-2-22)遲く送り團子をこしらへるらしい。さうして是が鴉などに取られて早く無くなると、亡者は極樂に行かれると謂つて居る(田嶺炬燵話)

タナツケダンゴ

 筑前の大島でも、葬式の日になつて團子をこしらへて供へる。それを棚付け團子又はゴウノダンゴと謂ふ。幾人もかゝつて作るのを習ひとして居る(葬號一六三頁)

イッポンバナ

 常の日に一本花を立てるのを忌むのは、やはり新亡者の枕元に立てるからであらうが、此方は一盛り飯や一杯茶を進めるのと、動機がよほど違ふやうに思ふ。新しい神道の葬式に於ても、喪主の捧げる玉串だけが別に大きく、又各人もたゞ一本の小枝を持つと同じく、この花の枝は亡靈を依らしむる料であつたので、何本も立てゝは招く心持が無くなるのであつた。この花に何を立てるかは注意に値する。筑前大島では必ず椿の枝、近江高島郡でも椿又は柾木の花の無い枝を一本さした。この一本花は又葬列に加はつて墓まで持つて行つた。持つべき人の數が多いと、其花の種類を増加した。出雲の簸川郡では百合とか菊とかの造花、奧州八戸でも三つ花と稱して、菊椿芥子の三種の一本花を墓に立てた。何れも粗末な造花であるといふ(以上葬號各條)

イハイカクシ

 佐渡ではこの一本花を、位牌隱しの花といふ名があつた(同上五五頁)。隱しもしようが其位牌と呼ばるゝものゝ出來るよりも前から、我民族の葬式には是が缺くべからざるものであつた。是が立てられなかつたら、身を離れた靈は依る處が無かつたのである。
 一杯飯を食へば坊主が死ぬ。一杯茶を飮めば坊主に逢ふといふ諺が、津輕には有るさうである(津輕口碑集)。逢ふ方は判るが死ぬと言ひ始めたわけは解しかねる。大體に凶事の作法は常の日にせぬことをし、從うて平生は出來る限り之を避けるのだが、單にそれは惡い時の作法だから忌むといふ以上に、特に「坊主が死ぬ」といふ類の結果を豫想して居るものは、別に何か信仰上の理由説があつたのかも知れぬ。一つや二つの氣まぐれな説明はあてにもならぬが、それが數多く偶發すれば何等かの暗示にはなる。比較の可能になるまで、注意してさういふ記憶を貯へて行くべきだと思ふ。

六 忌中の徽章


ヒガハリ

 喪のある家の火は惡くなると認められて居る。それで煙草を吸ひ、又は煮たり燒いたりしたものを食ふと、影響は其人にも及ぶものと、覺悟しなければならなかつた。不必要な他人を忌の中に卷き込まぬ爲には、主としてこの家の火の混同に警戒すればよかつたのである。忌を火と呼ぶに至つた事情は略※(二の字点、1-2-22)明白である。上總の君津郡の海岸には、東京などで謂ふ忌中を、火がはりといふ處があるといふ。或は「火が惡い」といふ形容詞の聽きそこなひかも知らぬが、別火といふ語もあるから、火變りと謂つても不思議は無い。

ヒヲカブル

 是は九州あたりで可なり弘く行はるゝ語である。標準語の忌がかゝると内容は同じだが、其定めは公式の服忌令とも一致せぬ例が多い。たとへば佐賀あたりの田舍は、父方目上二十日、母方目上十日、從兄弟三日、親々は四十九日といふのもある(民族と歴史五卷六號)。この四十九日は即ち中陰の七七日に當るのである。子分と稱して假の契約をした者は此外かと思ふが、中には自ら進んで餘分の火を被る者もあつたかと思はれる。

ヒマケ

 火負けは最も注意すべき俗信である。土佐の長岡郡で之を説いて居るが(葬號一五九頁)、搜せば他の地方にも有りさうに思はれる。喪の家に出入した者が病を獲れば之を火負けと謂ひ、之を治するの色々の呪法がある。棺の繩の一部を黒燒にして服するなども其一つで、豫め其需要の爲に、埋棺の際から繩の端を少し出して置くといふ。

ヒアヒ

 忌中の火には外部の人が近づくを避けたゞけで無く、内に居る者も努めてその常火と紛れることを戒めたらしい。出雲の舊神門郡などでは、元は忌中には主屋座敷を使用せず、家に下家げや建て出しを設けて其中に住み、その下家へもたゞ裏口からばかり出入した。是に依つて市中軒竝の地では、毎戸家の兩脇に三尺づゝの細路があけてあつて、此路を火相ひあひと謂つた(民事慣例類集)。東京でヒアハヒといふのも同じ語であらう。奧羽でも一般にヒヤコと呼んで居る。現在は火災を防ぐアハヒ、即ち間地のやうに想像せられて居るが、其爲としては餘り狹すぎる。事によると何れも忌の火の通行の爲に設けられたものかも知れぬのである。

モガリ

 津輕地方に於ては、喪のある家の表口には二本の木を斜十文字に組んで立てゝ置く、是をモガリといふさうである(東奧日用語辭典)。普通の辭書には是をたゞ垣根の一種の如く説いて居るが、少なくともこのX形にはシンボリックな意味があつたのみならず、是によつて始めて殯をモガリと訓ませた理由もわかるのである。同じ青森縣でも野邊地などは、モガリは葬送前に棺を置く室のことで、出た跡をやはり二人で掃除し、あと札といふものを貼つて置く室のことだといふ(中市謙三君)。越中の新湊でも竹を斜めに十字に組んで、簾の外に縛つて置く風がある。主人の時は大きく小兒などならば小さい。但しモガリといふ名は無いといふ(大間知篤三君)

カセ

 喪家の玄關に、竹を二つ割りにして斜十文字に結はへて置く風は、なほ諸處にあり、其名は一定して居ない。集めて置く必要があると思ふ。是をカセと謂ふ土地もたしかにあつたが、今その場所を忘れてしまつた。

ヲリカケ

 筑前の大島・地島等では、割竹の頭を曲げて荒繩で結はへたものを二つ、喪のある家の門口に立てる。是を折掛と謂ふのである。出棺後は取立つて燒却してしまふといふ(葬號一六二、二一〇頁)。同じ名は又北九州で、水の神の祭具などにも用ゐられて居るが二者直接の關係は無いやうに思ふ。

ミス

 簾を入口に垂れ、忌中と書いた紙を斜めに貼る例は、東京の町家でも尚常に見かけるが、多分は人の出入の多い商業地區だけの風習であらう。是を垂れて置く期間は、生計の必要上次第に短かくなり、忌の制度の崩壞を促す原因の一つであつたことは、書證の方からも之を知ることが出來る。野邊地などでは親戚に喪を發表すると同時に、此ミスを掛けて忌中の札を貼るのみならず、尚近い親戚でも同樣にミスを掛けるさうである(中市君)

エンリョナハ

 越後の中部、古志三島等の數郡では家に不幸が有つて正月年賀の禮を斷はる場合に、門口に藁繩を張つて置き之を遠慮繩と謂つた。同じく魚沼頸城の各郡は、門口に三尺ばかりの棒を立て、それを延引棒と名づけて居たさうである(越後風俗志)

ムヌヌキ

 沖繩本島島尻地方などで自分が見たのは、喪家の方でする作法では無く、村に死者があると他の家々で、門口の地上に木を横たへ、又は繩を引き砂を撒いて、それをムヌヌキと謂つて居た。又内地の鬼瓦と同樣に、瓦屋の一端に漆喰を以て獅子形を作つたものをも、同じ名を以て呼んで居る。中古文學の「もののけ」とは別の語のやうである。喜界島でも名は何と謂ふか知らぬが、葬列の通路に面する家々では、バシ即ち喰はず芋の根引したものを三本、そろへて門口に置いて萬の妖を避けた。バシは芋の一種だが、其汁が身に附けば大變痒いので、人や獸に忌まれる植物である(葬號一九九頁)

フジョウヨケ

 筑前地島では、葬式が通る御宮の前と、葬式のある家の門口とに、モガリ同樣のものを立て、之を不淨除けといふ。但しこゝでは青竹を二本組合せ、且つ其結び目から石をぶら下げたものである(同上二一〇頁)

ミカクシヅカ

 墓に行く通路が神の社の前を過ぐる場合、正面に塚を築いて置く風習も元はあつた。下野野木宿に於ては之を見隱し塚と謂つて居る。葬列は郷社から見えぬやうに、其外側を迂曲したといふ(日本道中略記)。この見隱しも葬式のことで、社から見えぬやうに隱すといふ意味で無からう。

ササヒキ

 上州では家に死人が有るとき、神靈を涜さんことを恐れ、他人に依頼して室内の神棚を、笹の葉を以て掩うてもらふ風があつた。之を笹引と謂ふ(群馬郡誌)。白紙を神棚の前に垂れるなどは、東京でもすることである。

キチウダナ

 農家で屋敷の入口の路に接した處に、棒を立てゝ小さな棚をしつらへる風は三河にもあり、之を忌中棚といふ(郷土研究五卷二號)。四十九日の間置くといふ。自分が羽後の男鹿半島の村で見たのは、至つて小さな木のホコラで、中に神社の札が入つて居た。忌ある間家の内では祭を營み得ない爲では無いかと思ふ。但し彼處では何と謂ふかを尋ねなかつたから、忌中棚とは別かも知れぬ。

七 年たがへ


 忌を避ける風習は、近年著しく稀薄になつて來た。其原因が原理の否認もしくは改訂で無いことは、夙くから人が別火の理由を説明し得ず、たゞ感覺の上でのみ混同を嫌つて居たのを見れば判る。つまり此制限は可なり不便迷惑なものであつて、何かの機會があれば自他ともに是を脱却したかつたのである。最初の動機は經濟上のもの、即ち食物の欲求であつて、甘んじて喪家の合火の膳にも就かうとした人には、既に久しい前から合火が火負けの元であるといふ知識は無かつたのである。さういふ中に於てたゞ一つ、忌に對する不安怖畏の、全國的ともいふべきものが殘つて居る。是を防衞する呪的手段が、やはり食物の攝取方法、即ち食ひ別れに在つたことは注意に値する。自分は一般忌火作法の痕跡を考察するに先だち、特にこの同齡拘束の不可解に近い俗信に、學徒の研究が向けられることを希望して、やゝ綿密に各地の例を集めて見た。

トシタガヒマメ

 是は甲府の附近に、近い頃まで行はれて居た慣習である(人類學雜誌一三五號)。近所におのれと同じ年の者が死ぬと、年違ひ豆と稱して豆を炒り、自分も食し又近隣の子供にも遣つて食べて貰ふ。さうすると死の厄を免れると謂つて居た(甲斐の落葉)。この近所といふのは勿論同部落を意味することゝ思ふ。子供は最も忌からは遠い者である故に、是と共同の食事をするのは、愈※(二の字点、1-2-22)喪家の食事から斷絶したことを確保するわけである。産婦が産屋の忌から出る場合にも、亦小兒を集めて是と共に食事をする風が遠江にはあつた。

トシタガヒモチ

 年違へ餅といふ名稱は、果してあつたかどうか確實で無いが、さう呼ばれて居たらうと思ふ。餅は各地にあつた。たとへば武藏の青梅邊では同年の人が死んだのを聽くと、早速煎餅や饅頭のやうなもので耳を塞ぎ、それを四辻へ棄てゝ來る。歸りには後を振囘つて見てはならぬと謂ひ(郷土研究四卷三號)、駿河の方でも同じ場合に、わざと自分の衣服を質に入れて金を借り、其金を以て御馳走するといふが(同上一號)、是なども本來は餅であつたらう。九州でも島原半島の田舍では、厄年に當つた者に限り、同年齡の人の死を聞知すれば、餅を搗いて祝をして居た(同上二號)。現在でもまだ記憶する者が有る位に新しいことである。

ミミフサギモチ

 是が一つの風習の分布であつて、偶發の奇習で無いことは、名も行事も互ひによく似て居るので判る。伊勢の神都でも知人同年の者死去の場合に、白餅を買求めて之を我耳に當てゝ後、屋根の上に投上げる風があつた(風俗畫報二三〇號)。是を耳塞ぎ餅と稱し、其凶報を我耳に入れまいといふ趣意だと謂つて居る(宇治山田市史下卷)。三河の豐橋あたりでは、餅を單に耳に當てるだけだが、北設樂郡へ行くと、特に米の粉を練つて耳の形としたものを作り、是を耳にあてゝ、
ネヂカチ/\/\
と三度唱へる。この行事を耳塞ぎと謂つて居る(設樂昭和八年六月號)。ネヂカチは恐らく捻ぢ合つて勝つたといふことであらう。南設樂にも同樣の習俗があるが、自分の家から屋根の見える家で、同年の者が死んだ場合に限つて居る(葬號一〇〇頁)。越後中魚沼郡でも同齡者の死を聽いて、やはり耳塞ぎ餅を製して、よい事をきゝ惡い事は聽かぬ樣にと、遲まきながらも兩耳を塞いで其餅を食ふ(同上六二頁)。是は或は餅は耳に當てなかつたのかも知れぬが、會津地方でも二三十年前までは普通に、同村同年の者が死ぬと餅を搗き、一部は食ひ又一部は耳に押付けてから川に流した。後々は饅頭餅菓子を求めて代用した。多くは子供の時にするといふのは(郷土研究七卷三號)、彼等には特に興味ある行事であつたからである。山形縣莊内地方に於ても、同年の者の葬式の鉦の音を聽くと、自分も誘はれるなどと稱して、耳塞ぎ餅をその葬式の日に食べ(東田川郡誌)、且つ遠くへ出かけた。尚此地方では別に舊十一月十五日に、サケの大助といふ鮭魚の頭目が、「大助こう助今登る」と唱へつゝ川を登つて來る。其聲を聽いた者は三日の中に死ぬといひ傳へがあつて、家々一統にやはり耳塞ぎ餅といふのを搗いて食べた(同上)。端午又は六月一日の耳くぢり芋の風習などを考へ合せると、以前はもつと弘い應用のある呪法であつたかと思ふ。

ミミフタギ

 耳に當てる食物も又餅には限らなかつたのである。常陸の新治郡などは炊き立ての飯で握飯をむすび、是を兩耳に當て、後から箕で頭を掩うてもらひながら、路の三叉まで行つて其握飯を棄てゝ來ることは青梅のに近かつた(郷土研究二卷一號)。野州足利邊でも、二個の饅頭を携へて石橋の上に行き、是を兩耳に當てゝ後、其橋の上に置いて後を見ずに歸つて來る。それを耳ふたげと謂つて居た(同四卷九號)。陸前登米郡の耳ふたぎ餅は、同じ年の者が死んだと聽くと之を搗き、死者が男なら女の人に、又女ならば男に、自分の耳を塞いで貰つた(同三卷八號)

ミミダンゴ

 大分縣賀來村は、耳が遠いので有名な善神王樣の社のある地だが、こゝでも死者と同年の友は、耳團子といふものを拵へて食べる(豐後傳説集)。阿蘇の宮地でも同年の友人が死ぬと、耳ふさぎ團子と稱して團子饅頭餅の類を、兩耳に一つづゝ當てゝ耳を塞いだ後に食べる(葬號一八三頁)。筑前志賀島でも二十年前までは、同年者が死ぬと耳塞ぎをした。茄子大根の類を輪切りにして、それに菓子などを添へて耳に當てるのである。此島では又耳が鳴ると同年の者の死ぬ前兆などといふ俗信もあるさうである(櫻田君)。同國大島の例は温い飯を紙に包み、それで耳を塞いでもらふのであつたが、同じく地島にも是と近い習はしがあり、又長門にも類例がある。全體に此地方の海岸筋には、同齡者間に特別の親しみがあつて、色々の仕事を共同にして居る(同上)。死亡の場合なども無關心で居られなかつたものと思はれる。
 信州の北安曇郡各村では、屋根の見える家で同い年の人が死ぬと、一升桝の裏で年取をするものだと謂ひ、又はジョウベ石(踏段石)の上で年取をするとも、魚を食つて年取をするともいひ、下駄を流さなければならぬとも謂つて居る(郷土誌稿卷四)。年取りとは正式の食事といふことに過ぎない。阿波の伊島に於ては、柄杓に水を汲み、其杓の柄を下にしてそれを流れる水を飮むとも謂ふ(島一卷四號)。斯うして多くの場合を比べて見ると、耳を塞ぐといふ點は是ほど一般であるが、尚その以前の形の有つたことが察せられる。既に凶事を耳にしてから、塞いで見たところで何にもなるもので無い。同齡者は平生最も多く共同の食事をして居る。其心身には共通の成分が有り過ぎるから、一つの原因が作用し得る危險を感ぜずには居られない。故に急いで食物の隔絶を以て、別の状態を作り出す必要があると認められたものと思ふ。忌の根本の合火も一つの鍋にあつたことは、斷定し得ぬまでも略※(二の字点、1-2-22)推測し得られるのである。

八 別火屋


ノゴリト

 「くやみ」といふ言葉の内容の變遷は、さう簡單に看過することが出來ない。クヤシといふ形容詞の本來の語義からいふと、寧ろ喜界島の樣に近親の喪に籠るべき人々を悔み人といふ方が當つて居ると思ふのに、現在は却つて外間の比較的冷淡なるべき者が來て、其くやみの辭を述べることになつて居る。是も手傳その他の服喪志願者の増加と、併行して現はれた新傾向だとすると、其過程を辿る爲には、今日の所謂慰問者を、他地方で何といひ、又どういふ辭令を交換しつゝあるかを、注意して見る必要がある。一二わかつて居る例をいふと、青森地方では是をノゴリトと謂つて居る。名殘人の轉訛かとの説がある。此地の挨拶では通例ノゴロイと謂ふのだが、是と關係のある名とだけは察せられる(國語教育一八卷三號)。中國地方でもノコリオイ、又は殘り多いだの殘り惜しいだのと謂ふ者は多い。今日の文法からは何れも少々解しにくいから是も亦前代の殘形であつて、何等かの古い氣持を暗示して居るのかも知れぬ。

シンヒキ

 肥前の千々岩では、シンヒキといふのが悔みのことだといふ(山本靖民君)。此語は尚一段と意味が取りにくいやうである。トムラヒといふ語もこの特殊の訪問のことの如く解して居る者もあるが、それでは又葬式全部を此名で呼ぶことが不明になる。尚後段のフギの條を參照して貰ひたい。

ツナギ

 親族以外の弔問者が、喪家に物を贈る慣例も少しづゝ變つて來て居る。比較的古い形としては、繋ぎといふのが最も弘い名であつた。例へば陸前の牡鹿郡などで、契約講の仲間が講の申合せに依り、一定の米錢を醵出して贈つて來るのがツナギであり(葬號五一頁)、普通は五合乃至一升の米を出すことになつて居る。他の一端の日向諸縣郡でも、葬式の日に郷中男女各一人の手傳の外に、米をゴ三ツ(七合五勺)づゝ係の者が纏めて持つて行くのをツナゲと謂つて居る(葬號一八五頁)。ツナギは土地により又ツラヌキとも謂ひ、もと錢緡に穴錢を通すことであつて、目的は凶事の場合に限らなかつた。たとへば村の諸掛り飮食の入費などを、軒別に集めるのも繋ぎであつた。要點は各戸同額又一統といふことに在つたと思ふ。

ムジョウコウヌキ

 阿蘇では組内に不幸のあつた場合、各家米二合半づゝを頭番の者が集めて、其夜のうちに贈つて來た。是を無常講ぬきと謂つたといふ(同上一七五頁)。無常講は中國西部では死講とも謂ひ、本來は東北の契約講同樣に、一般的な互助團體であるらしいが、特に喪葬の場合によく働くから、斯ういふ名が出來たのである。ヌクといふのもやはりツナギと同じ意味で定額の醵出を意味するかと思ふ。

ツルベセン

 駿河の入江町あたりでは、この無常講の集めて贈る僅かの錢を、釣瓶錢と謂つた。貧窮の者も是で棺だけは買ふことが出來た(安倍郡誌)

ムラコウデン

 甲州の南巨摩郡などは、村内に死亡があると、無縁の者でも一定の香奠をはらなければならなかつた。之を村香奠と稱し、近頃は一戸五錢づゝ位であつた(石川緑泥君)。香奠といふ語も金錢の贈遺も共に古くから有つたものとは思はれぬ。專ら食料の米粟類を持つて來たとすれば、是を出すべき家は有縁の者に限られて居たのでは無からうか。組や講中は門統組織が弛み崩れて、村内に獨立した小家が多くなつて後に、追々に其機能を發揮した。是が外間の者の飮食の盛んになつて來た一つの誘因かと私は考へて居る。葬時の食制といふものが、曾ては今一段と嚴肅であつたことは、未開の種族の例と比較するとやゝ判つて來る。是を忌の外まで押し擴めた、仲介者は僧侶であつたかも知れぬ。彼等の信仰には忌は無く、もしくは穢れある食物をも食べようとしてゐたのだから、此想像は無根據では無い。

ムジョウヤスミ

 越後西蒲原地方には無常休みといふ名があつた。村に無常事があると、その葬式の日は休みになる。此日は山仕事即ち屋外の勞働はせず、家のうちの仕事だけはしてもよろしい。それから一家一人づゝ喪家へ來て手傳ふのであつた(風俗畫報一九四號)

ナミクンデエ

 喜界島の阿傳では、葬禮の日の贈物を、今は線香料と謂つて居るが、以前は部落各戸から酒三合づゝ持つて行く義務があつた。デエは酒の音轉訛、ナミクは不明だといふ。小野津村では見舞の金をウワイ又はウワイムンと謂つて居る(岩倉市郎君)。酒は日本では葬式の日によく用ゐられるが、飯のやうに亡靈とは共同しない。同じ口腹に入るものでも、他の食物とは異なる取扱であつた。ナミクンは或は浪汲みであつて、清め酒の意味では無かつたらうか。次々の條に出て來る酒の用法と比較して見るべきである。

ホネコブリ

 豐前の宇佐郡などでは、葬式の加勢に行くことを骨こぶりと謂つて居る(大分縣方言類集)。コブルは此地方で「かじる」を意味する方言らしく、此言葉には隱語的の可笑味があつた。富裕な家の凶禮には用の無い者までが集まつて、むやみに食ひ倒さうとする弊風は近頃でも見られる。

ヒタカズ

 近江高島郡の石庭あたりでは、一番丁寧な葬式は火焚かずと稱して、部落中の住民全部にトキを出した。牛馬を飼ふ家へはその牛馬の飼料として、飯を貰つて行く者さへあつたといふ(旅と傳説六卷一二號)

ケブリタヤシ

 紀州の有田郡でも、村で一二流の家に葬式が有るときは、ムラドキ(村齋)もしくは煙絶やしといふことをした。前者は各戸一人又は二人づゝ會葬することを意味し、後者は葬式の當日だけは、村中の家々で飯を炊かず、すべて不幸の家で炊き出しをして各戸に之を配つた(有田郡年中行事)

ベツビヤ

 喪家の食物を食ふといふことは、必ずしもその忌の火にまじることを意味しない。是には隔絶の方法がちやんと設けられてあつたのである。たとへば土佐長岡郡では、死の報傳はるや隣保先づ來り弔し乃ち別火家といふものを定める。死者の家は穢れあるによつて、其火を避ける爲に別に家を定め、そこに集會飮食せしめるのである。人々はこの別火家に集まつて部署準備をする。隣保の香奠は各戸等額で、之を別火家へ持來つて酒肴を調へ、埋葬事終つて直ちに飮食し喪家へはたゞ其目録を呈する(葬號一五六頁)

ソトザ

 壹岐では悔み客をハレエシと謂つて酒食を饗する。其座は外座と謂つて外庭に藁を敷いた上に疊をのべ、周圍には菰を立てゝそこで食事をさせる(壹岐島民俗誌)。調理も多分別の竈でするのであらう。ハレエシの意味は尋ねて見たいものである。

オゼンノヤド

 肥後の阿蘇では、葬儀萬端の炊事接待饗應の用意をする家を、御膳の宿と謂ふ。死亡の家では一切の煮炊きをしない。或は此宿をヒラカタといふ處もあるが、宮地の町ではヒラカタ又はオヒラツギは炊事係長のことである(葬號一七五頁)

ナカショウジ

 伊豫喜多郡藏川あたりは、親類縁者は別にして、講仲間だけが集まつて來て働く家を中精進といひ、大抵は喪家の隣を借りる。組内一戸一人づゝ、白米一升と野菜とを携へて來て、全然火食を別にし外部の手傳をする。薪を採り米を搗くなども此人々の役だといふから(同上一五一頁)、持參の白米以外の米も消費したのである。

ショウジンヤド

 紀州有田郡でも葬式の日、會葬者に出す食物を調理する家を精進宿と謂つて居る(有田民俗誌)。其料理は精進であらうが、言葉の意味は穢れた火を避ける方に在つたと思ふ。この獨立經濟に、死者の家人が干渉することまで今は非常に嫌はれて居り、けちな家は却つて損失が大きかつた。米俵が生垣を飛越える日などとも謂はれて居り、浪費が殆と主要なる特色になつて居る。所謂更生時代に入つて、大いに改良せられ得る部分である。

ショウジンガタメ

 近江高島郡には精進固めといふ語がある。死亡の日の夜、通夜の人々に出す夜食のことで、酒も出し殘つた魚類は使つてしまひ、それから後は全部精進になる(葬號一〇四頁)。故に精進固めだといふのかも知らぬが、殘つた魚などがさう有るわけは無いから、是も一つの忌と常との堺目である。

九 忌の飯


モトビヲクフ

 伊豫藏川村では、講仲間の中精進に對立して、親類縁者の亡者の家で飮食し、且つ内部の手傳をすることを元火を食ふといふ。此人々も白米一升を持つて來ることは組の人たちと同じだが、後者には此外に香奠は無く、身うちの方は香奠に添へてこの米を持つて來る(葬號一五一頁)

サンニンヅキ

 枕飯に用ゐられる米を、筑前大島では三人搗米と謂ふ。必ず玄米を三人して搗くのである。臼の中から出すときトホシ(篩)を通さず、箕でさびて箕の向ふから受取り、空釜の中へ米から先に入れ、水を後から入れて磨ぐことは他の地方も同じい。桝は此米には使用せず、手を以てつかむことにして居る(同上一六二頁)。肥前の川上郷でも死人あれば四斗臼に玄米を入れ、杵を以て必ず三人で搗く習はしであり、それ故に三人ナデと謂つて居る(社會史研究九卷二號)。ナデとは杵のことである。此習俗は古いもので無いやうである。といふわけは以前の手杵時代には、吉事にも常の日にもやはり三人で搗いて居たからで、或は横杵の出來てから後まで、尚喪の米だけは三人かゝつたか、或は是ばかりは古風の手杵を用ゐることにして居たのであらうと思ふ。

ヨニンギネ

 土佐長岡郡では、埋葬の日死者に供する飯米は、四人が杵をふるひ、相對して一臼の米を精げた。今は精米所が出來てこの風習は絶えた。此際には特に北向きの竈を築き飯と菜とを調へた。故に平日は北向きの竈、及び四人向き合つて米を舂くことを嫌つたといふ(葬號一五九頁)。この禁忌は昔からあつたものとも考へられる。

ヒノメシ

 壹岐では死者の血族だけに別火の食事をさせる。是を火の飯と謂ひ、其料に各人が持つて來る白米一升をヒデエと謂ふ。ヒとは忌のことである。故に死亡の通知をも「ヒを告ぐる」といふ。其使は必ず二人(壹岐島方言集)。尚前項ヒヂの條を參照せられたい。このヒの飯は別火別室で食ふことになつて居る。

ヒデ

 鹿兒島縣には、今でも香奠をヒデと謂ふ處がある(縣方言集)。この方言の分布は更に弘く九州の田舍に及び、互ひにそれを我土地だけの片言と思つて居るものが多からうと思ふ。其保存状態を調べて見たいものである。

マクラゴメ

 肥後下益城郡では、不幸のあつた家へ夜食を送る。舅姑の場合には一俵乃至三俵の米を贈ることもある。之を枕米と謂つて居るのは(郡誌)、やはり枕飯の料になるからであらう。丹後の海岸地方にも枕米といふ語がある。子や聟などは枕米一俵酒一樽、兄弟姉妹等それ/″\の多寡がある(與謝郡誌)

ススメ

 陸前遠田郡では悔みの日、近親の者がススメと稱して、順番に飯を炊いて集會者に馳走する(郡誌)。其材料も亦各※(二の字点、1-2-22)縁者の負擔であつたと思はれ、牡鹿郡では近親より贈つて來る米その他の物品をススメと謂つて居る。それから同じ人々が金錢を持つて來るのをクヤミ、葬式終つて後法要の際に、金を贈るのだけを香奠といふ。契約講の醵出する米錢はツナギであつて、是とは又別になつて居る(葬號五一頁)

ミツキ

 大隅の高山では、右のクヤミの金品をミツキと謂つて居る(野村傳四君)。即ち貢ぎの意味であつて、ヒデは次に擧げる籾くぶきの方では無いかと思ふ。

イッショウクヤミ

 甑島の瀬々浦では、葬式翌日の「三日」と稱する法要の際に、白米を一升以上贈つて來る者がある。之を一升悔みと稱して、四十九日には招いて酒食を供する。クヤミが前にも述べた樣に、身うちの者に限られた語らしきことは、是からも稍※(二の字点、1-2-22)想像し得られる。但し九州は各地とも、弘く之に對して一俵香奠といふ語が行はれて居る。女聟や別家の子の如き特に死者に近いものが、入費を分擔する心持を兼ねて、斯うして餘分の忌の飯を負擔したので、それを又名聞の爲に棺前に飾り立てる風さへ生れて居る。其爲に一升悔みの親類は、自然に中間の一階級の如き觀を呈し是には無縁の村人までが追々と參加した傾向が、恰かも忌の稀薄なる延長と併行して現はれたのでは無いかと思ふ。

シキマイ

 筑後の八女郡では、右の一俵香奠を式米などと稱して、棺前に積重ねて贈人の名を短册に署すること、都市の造花放鳥と近くなつて居る。式後に坊さんへの謝禮として、香奠と共に寺へ贈るといふ(旅と傳説七卷三號)

モンクブキ

 大隅高山では親死亡の時、子より送る籾俵を籾くぶきと謂ふ(野村君)。クブキは叺のことで藁製の袋の口を括るからさういふらしい。

カガリ

 上總山武郡などでは、父母の死亡の場合、米俵に特殊な繩かゞりをして贈ることを、カガリを附けると謂ふ。此地方の習はしとして幼兒をめでたい老人に拾つて貰ふことがあるが、さういふ取上げ孫も取上げ爺婆の葬式に際しては、このカガリの米俵を一駄贈つて來る(秋葉隆君)

イロダイ

 甲州東部では、香奠以外に特別に若干の金錢を出すのを色代と謂ふ(北都留郡誌)。相州津久井では死者に世話になつた人々などの、供に立つ者が出す香奠が色代で、多くは五錢十錢の少額だといふ(葬號八三頁)。佐渡では香奠に三通りあつて、イロを着る見送り人の出すものを色代香奠といふから(同上五六頁)、即ち一升悔みに當るものである。イロは後にも出て來るが忌の衣のことである。婚禮には嫁が着るし、死者の着る白衣をもイロといふ處がある。無色を意味する逆さ詞である。

メサマシ

 夜伽は喪屋の慣習の殘留かと思はれて、至つて重要なる觀察點であるが、まだ一項目を立てるだけに各地の資料が集まつて居らぬから、假にこゝに附載する。九州では廣く此語が行はれて、一般に其通夜の夜の食物を意味して居る。肥前島原では村の有志が米を一合位づゝ集めて持つて行き、是に參加することを目覺しにかたると謂ふ(葬號一六六頁)。肥後の南關でも講中ならゴ一つ又は二つ、親類ならば二升位、握飯にして目覺しに持參する(同上一六八頁)。日向の眞幸でも郷中の者が、米を集めて、握飯にして持つて行くのを目さまし、又その通夜のことをも目さましといふ。家族親族は此語を使はぬといふ(同上一八四頁)。伽はその和製文字が表示するやうに、多くの人が集まつて居ることを意味し、トキは目覺ましと同樣に起きて居ることから出た語と思はれる。これに參加して食事をすれば、合ひ火になることは確かなのだが、近世は忌のかゝらぬ者までが、至つて氣輕に通夜の席へ出ることになつた。しかも是に携帶の食事を條件として居るのは、尚調理を別にしなければならぬ拘束が殘つて居るのかと思はれる。兎に角にメサマシは殆と常に、外でこしらへた食事であつた。阿蘇では無常講で集めて贈る米をも、目覺し米と謂つて居る(葬號一七一頁)

ソヒネ

 長門の大島などでは、死者の傍で夜伽をすることを添寢と謂つて居る(島一卷三號)。事實女房や娘は死者の傍に寢たのであらう。さういふ實際の例が日本でも稀にはあつた樣に記憶するが、今たしかな出處を擧げられない。斯うした痛ましい光景の中であつたならば、目覺ましを食事と解する變遷も起るまいが、喪屋に籠るといふ習はしは、埋葬の方法の改革と共に存外に早く無くなつてしまつたのである。尚この點については、墓のタマヤの條でもう一度述べようと思ふ。

シホナメ

 忌の終りは現在は四十九日が通則になつて居るが、人によつて其期間に長短がある方が當り前である。其終りの日には改まつた大きな式が入用である爲に、家長の忌を以て全體の中陰としたのでは無いかと思ふ。鹿兒島縣の寶島では、人の死後、親子は百日、兄弟は四十五日、從兄弟は三日たつと、各※(二の字点、1-2-22)潮花を汲み竹の葉を以て之を身に濺ぎ、又之を飮む。親しい者ほど多く飮み、縁の遠い者は嘗める程度に止まる。さういふ關係を潮嘗めと謂つて居る(島一卷一號)。從兄弟ですら三日だから、それより疎い者ならばたとへ合食をしても、歸つて潮を嘗めて置けば、淨まはることが容易であつたわけである。富家の葬式の煙絶やしに村中先を爭つて集まつて來るのも、さう近頃からの現象では無かつたとも見られる。

(附記)略符説明
葬號=「旅と傳説」六卷七號、誕生と葬禮特輯號





底本:「定本柳田國男集 第十五巻」筑摩書房
   1963(昭和38)年6月25日発行
初出:「宗教研究新十一卷五號」
   1934(昭和9)年9月
入力:フクポー
校正:津村田悟
2025年7月21日作成
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