この頃の一番大きい話題は、原子力である。原子爆弾の出現以来、世界中の人間が、原子力の恐怖病にかかった傾向があった。ところが一方最近になって、原子力の平和利用が賑やかに唱えられて来て、原子力時代というような言葉が、盛んに使われるようになった。
確かに、人類は、今新しい
電燈や電車はもちろんのこと、ラジオやテレビなど、昔の人の言葉でいえば、千里眼や順風耳が、現実に現われて来た。それ等は全部、電気のはたらきを利用したものであって、電気が無かったら、人間の生活も、ものの考え方も、今日の姿とは、大分違ったものになったであろう。
電気という新しい
それで原子力が、今のところブームになっていて、毎日の新聞やラジオで、原子力という言葉に接しない日は、一日もないといって、決して過言ではない。ところが可笑しなことには、それほど皆の口の端に上る原子力について、その本体を、たいていの人はほとんど知らないでいる。原子力は物質が
この「原子力は、物質が
禅の方で、物心一如という言葉があるそうであるが、原子力は、まるでこの禅語を、現実に証明したような恰好である。この悟りのようなものから、現実に原子爆弾が出来たり、原子力発電がされたりしたわけである。如何にも不思議な話であるが、本当は何も不思議なことではなく、物質と普通にいわれているものも、また
その説明にはいる前に、まず「物質」と「
物質といえば、ものであって、何も説明など要らないわかり切ったことと思われるかもしれない。しかしこれは案外厄介な問題なのである。人間の身体とか、茶碗とか、水とか、というものは、なるほど物であるから、これは物質にちがいない。しかしこれを物と感ずるのは、形が目に見え、またさわってみると硬かったり軟かかったり、とにかく手に触れるからである。
それならば、空気のように目にも見えず、さわってもみられないものは、物質でないかといえば、もちろんこれも物質である。水の場合がわかり易いが、温めて水蒸気にすると、これは全く空気と同じく、目にも見えず、又手にも触れないものになる。鉄瓶の口から出る湯気は白くて目に見えるが、あれは水蒸気ではなく、小さい水滴の集まりである。ところで水蒸気を冷やすとまたもとの水にかえる。水は物質であるから、それが水蒸気になっても、やはり物質と考うべきである。冷やせばまた水という物質に戻るのであるから、途中だけ物質が消えては可怪しな話になる。
手に触れられないもので、やはり物質と考うべきものは、他にも沢山ある。例えば、月や太陽なども、これは物質であると、誰でも考えている。
月というものが天空に存在しているのである。芝居の書割に出て来る月、即ち幕に後から光で照らして作る月は、物質ではない。しかし本当の月はさわっては見られないが、物質である。電波を送ってやると、月から反射して戻って来る。
それでは、物質と物質でないものとを、何で区別するかというと、それはなかなかむつかしい。形や硬さで区別することの出来ないことは、水蒸気の例で既に説明ずみである。色などはもちろん判定要素にはならない。或る茶碗を赤い光で見れば赤に見えるが、青い光で見ると青く見える。しかし色などはどう変っても、茶碗には実質というべきものがあって、それは不変なものであると考える方が至当である。
この不変の実質が何であるか、さらに進んでは、そういう不変の実質というものが果して存在するか否かが、大いに問題である。
ところで科学も、結局は人間がつくったものであって、そういう一つの学問をつくり上げるには、何か基盤になるものが必要である。その一つとして物を取扱う以上ものには実質があって、その実質は不変であるということにしないと、学問を組み立てる足場がない。
茶碗の例についていえば、色はその実質とは関係がない。照らす光によってどうにでもなるからである。形も同様であって、今或る一つの茶碗をとって、それを粉々に割ったとしても、その粉を全部集めたら、茶碗の「実質」は全部揃うわけで、それは割った前と違わないと考える方が至当である。割ったために足りなくなったら、その分は破片を見失なったと考うべきである。
ところで茶碗を割らない前と、割ったあと全部の破片を拾い集めたかどうかを判定するには、一つだけ方法がある。それは目方を測ってみることである。もし目方をはかってみて、以前より少なかったら、破片を見失なったと思うのが普通で、事実、克明に破片を全部拾い集めてみると、目方は変らないのである。人間が台秤の上に載って、立っていても、しゃがんでいても、十五貫三百匁の人ならば、同じ十五貫三百匁である。この十五貫三百匁という目方が、その人の「実質」であって、これは姿勢などによっては変らない値なのである。
すべての物質には、この「実質」があって、これを物理学の方では、質量といっている。しかしそういう耳新しい言葉を使うと、話が不必要にむつかしくなるので、以下質量のことを、実質ということにする。
物質というのは、この実質のあるものであって、要するに目方のあるものなのである。別の言葉でいえば、天秤で目方として感ずるものが、ものの実質であって、そういう実質をもっているものが、物質なのである。空気でも、水蒸気でも、適当な装置を使うと、ちゃんと天秤でその目方が測れるので、従って物質である。月や太陽、また地球も、天秤にかかる性質のもので、その前提の下に計算した日食や月食、その他の天文学的の計算が、実際の値と精確に合うので、月や太陽も物質と考えられるのである。
以上の話を要約すると、物質には、色や形や硬さとは無関係に、実質と称すべきものがあって、それは天秤に、目方として現われる。別の表現では、目方のあるものが、物質なのである。これは非常にはっきりした定義であって、例えば、幽霊が物質即ちものであるか否かは、幽霊に目方があるか否かで決まる。目方があれば、実在のものであるが、無ければものではない。
ところで、このものの実質、即ち質量については、従来から一つの大切な法則があった。それは物質不滅の法則と呼ばれている法則である。物質は、形がどのように変化しても、その実質即ち質量は不変であるというのが、この法則である。実質というからには、これは不変でなくては困るので、もしそれが勝手に変っては、物が消えたり、また現われたりして、学問の組み立てようが無くなってしまう。茶碗の破片が本当に消えたのか、見失なったのか、その判定をする基準が無くなる。
幸いなことには、実際に天秤を使って、精密に測ってみると、物質はその形が変っても、目方は変らないことが証明されている。密閉した硝子器の中に一定量の水を入れて、その目方を測る。それを暖めて水蒸気にすると、液体の水は無くなり、目に見えない水蒸気になるので、硝子器の中には、何も無くなったように見える。しかし目方を測ってみると、前と全然変らないのである。即ち、水は水蒸気に変っても、目方として感ずるその実質は不変なのである。
さらに水素と酸素とを化合させると、水素とも酸素とも全然別のものの水になる。この場合にも、物質不滅の法則は成り立つので、化合前の水素の目方と酸素の目方との和は、出来た水の目方に丁度等しい。これも精密な実験の結果確かめられたことである。即ち物質不滅の法則は、物質が化学変化をする場合にも適用されるということに、少なくも最近までは信ぜられていた。事実、現在ある天秤の精度の範囲内では、そのとおりなのである。
人間が死んだ場合、その遺体を火葬に付する。その時遺体が燃えて出来たガスを全部集めて、その目方を測る。それに残った遺骨と灰との目方を加える。この場合、燃えるというのは、空気中の酸素と化合することであるから、付け加わった酸素の目方だけ、この値から引く。するとその差し引きした目方は、火葬前の遺体の目方と等しい。即ち遺体の実質は火葬にしても変らないのである。これは実測した例はないであろうが、そうあるべきである。事実、本当に実験してみたら、そのとおりになるにちがいない。そうでなかったら、今日の科学は全部間違っていたことになる。即ち人間の身体の実質の量は、火葬にしても変らないのである。
魂があるか無いかということが、よく問題になるが、これは「ある」という言葉の意味によって、どうにでも返答が出来る。人間が生きている以上、魂はあるにちがいないがそれがものとしてあるか否かは、別問題である。ものとして存在するなら、魂に目方があるはずである。
中世の終り頃、これが問題になって、実験をした人がある。死の直前と直後とに、体重の変化があるか否かを測ってみたのであるが、魂の目方だけ減るというはっきりした結果は出なかった。魂に目方があるとしても、どうせ軽いものに違いないから、目方をよほど精密に測らないと、その差は出て来ない。一方人間の目方は、精密なところでは呼吸をしたり、汗が出たりするので、始終変化している。それで魂の分が、その変化の範囲内だと、測っても出て来ないはずである。それで実験は一寸出来ないであろうが、現在の科学の範囲内では、魂には目方がない。即ちものではないと信ぜられている。
以上の話を要約すると、物質というのは、目方のあるもので、その目方は、物質がどのように変化しても変らないということになる。もっとも、変らないというのは、現在の最も精密な天秤で測ってみても、差が出て来ないという意味である。天秤の精度が、今の一億倍も増したら、そういう天秤で測れば、状態の変化によって、目方即ち実質が変化するかもしれない。しかしそういう天秤が出来るまで、何もしないで待っているわけには行かないので、現在までのところでは、ものの目方は不変だとして、その基盤の上に立って、科学をつくり上げて来たわけである。実際に測ってみると、天秤の精度のきりきりのところでは、少し差が出て来る。しかしそれは天秤の誤差だとする。別の言葉でいえば、もののいろいろな性質の中で、目方として現われる性質が、その実質であって、この実質は、状態が変化しても、不変であり、この性質をもっているものを、物質というのである。これだけの説明をして、初めて、禅学で使われる物質という言葉の意味が、はっきりしたわけである。
これでわかったことはものの実質とはいうものの、案外に人間的要素がはいっている。実質というからには、何か一定なものでないと困る。始終変化するものならば、実質ではなく、仮りの姿である。それで状態が変化しても、不変に残る性質が何かないかと探して行って、目方につき当ったわけである。物の目方は、現在の天秤の精度の範囲内では、状態が変っても、不変である。それで目方として現われる性質のもとを実質(質量)とみて、そういう実質をもっているものを、物質としたのである。それで、物の実質といっても、全然人間を離れたものではなく、いわば人間が自然の中から掘り出した概念であるから、それが変化して、
次には、
ふり上げた槌には、杭を打ち込む能力があり、[#「あり、」は底本では「あり 」]飛んで行く矢には鳥を射落す能力があり、熱には機関車、従って汽車を引張って走る能力があり、電気や放射線にも、それぞれに或る仕事をする能力がある。こういういろいろな原動力のことをエネルギーという。エネルギーには、それで機械的エネルギー、熱エネルギー、電気エネルギーなど、いろいろあるが、それ等は互いに他に変化することが出来る。
例えば、水力電気は、水の落ちた力を電気エネルギーに変えたものである。その電気で、電燈をつけたり、電熱器を働かせたりすることは、電気エネルギーを光のエネルギーや熱エネルギーに変化をさせることである。ところでエネルギーが、このようにいろいろ形を変える時にも、大事な法則があって、それはエネルギーの量は形が変っても不変であるという法則である。このエネルギー不変の法則と、前にいった物質不滅の法則との二つが、今までの物理学、ひいては科学全般の基盤であって、この基盤の上に、現代の科学がきずかれて来たのである。
もっともエネルギー不滅の法則も、絶対的の法則ではない。物質不滅の法則が、現在の天秤の精度の範囲内で確かめられているように、エネルギー不滅の法則も、もちろん実験の精度の範囲内での話である。ところで、エネルギーは測定がむつかしいので、エネルギーを測る実験は、物質の量即ち目方を測る実験よりも、精度がひどく落ちる。目方の方は、一千万分の一くらいまでの精度で測れるが、エネルギーの方は、千分の一くらいの精度を得ることすら難しい。前に述べたように、熱もエネルギーの一つであるが、これなどは精密に測っても、千分の一くらいの精度である。それで機械的エネルギーが熱エネルギーに変ってもエネルギーの量は不変である、といわれているが、実験的に精密に確かめられているわけではない。千分の一くらいのところでは、変化があるのであるが、それは実験の誤差だとする。
それで物質不滅の法則も、エネルギー不滅の法則も、ともに公理と見ることも出来る。そういう公理を立てて、それに基づいて、学問を組立てたのが、今日の現代の科学であった。公理とはいっても、人間の頭の中で、勝手につくったものではなく、いろいろな実験の結果から推定したものである。そしてそれに基づいた科学が、必要とする精度の範囲内で自然現象をよく説明し、また役にも立つので、その公理は正しいものとされて来たわけである。
ところで、物質の方は一応よいとして、エネルギーの方には、一つの問題がある。それはいわゆる化学変化で発生するエネルギーである。例えば、水素と酸素とを混ぜて、火をつけると、爆発を起こして、水になる。初めは、水素も酸素も、透明な気体で、別にエネルギーなどもっていないように見える。出来た水も、ただの水であって、飲んでもちっともかまわない。ただの水であるから、これも別にエネルギーなどもっていないと思われる。ところが爆発というのは、非常な高熱と光とを出す現象であるから、水素と酸素とが化合する時に、多量の熱や光のエネルギーが出たわけである。そういうエネルギーが「無から有が出て来た」形で発生したものならば、これはエネルギー不滅の法則に抵触する。不滅というのは、無くならないというだけではなく、発生しないことも意味している。本当は恒存といった方がよいので、形がかわるだけで、量は変らないということである。水素と酸素などというと、何か学問的なことのように聞えるが、薪を燃やす場合でも同じことである。薪を燃やすと、熱エネルギーが出て来るが、このエネルギーは、何処から出て来たのであるかという問題がある。
これは今までは簡単に片付けられて来ていたので、こういう物質は、内部にそれだけのエネルギーをかくして持っていたとするのである。それを「内部エネルギー」といっている。水素も、酸素も、また水も、それぞれ内部エネルギーをもっている。しかし水素と酸素との持っている内部エネルギーの和は、水の内部エネルギーよりも大きい。それで化合して水になった時は、その差だけのエネルギーが、爆発のエネルギーとなって現われる、と説明して来た。これだとエネルギー不滅の法則に合う。というよりも、エネルギー不滅の法則を先に決めて、それに合うように、内部エネルギーの方を決めたのである。
エネルギーが出て来た時は、それだけのエネルギーが、内部エネルギーとして、初めからその物質の中にあったとする。一方内部エネルギーというものは、誰も見ることの出来ないものである。それでこの説明は、エネルギー不滅の法則を守るための、一種の胡麻化しのようにもとれる。しかし全くの胡麻化しではない。水素や酸素だけでなく、いろいろな物質間に、反応を起こさせて、その時出るエネルギーを測れば、各々の物質の内部エネルギーを決めることが出来る。その値から、他の化学変化の時に出るエネルギーを計算してみると、その化学変化で実際に発生するエネルギーの値と一致する。そういう意味では、内部エネルギーが存在していて、それにもエネルギー不滅の法則が適用されると見てよい。しかしこれは、本当のところは、辻褄が合うというだけで、内部エネルギーの本態が何であるか、という問題には触れていない説明である。もっとも本態など知らなくても、役に立てばよいので、従来は、こういう考え方で、化学、即ち化学反応を主として取扱う学問が出来ていたのである。
ところが、近年の物理学の華々しい進歩によって、とんでもないことが見付かった。それは初めは、理論的に出されたので、物質とエネルギーとは、相互に転換され得るものだというのである。即ち、物質は不滅ではなくて、時には消えて無くなることもあるが、その時にはエネルギーが出現して来る。逆にエネルギーが物質に変ることもある。相互に転換されるというのは、物質とエネルギーとが変り合う時に、その比率が一定だということも含んでいる。本当は物質といってはいけないので、物質の実質、すなわち質量のことなのである。物質は何でもよいので、その実質一グラムは9×1020エルグ(九の下に零が二十個つく数字、エルグはエネルギーの単位)のエネルギーに相当する。これは一兆の十億倍というとんでもない大きい数値である。一グラムといえば、きわめて僅かな目方であるが、それが消えると、とんでもなく大きいエネルギーが出現することになる。原子力というのは、このエネルギーなのであって、原子爆弾が非常に強力であることも、当然の話である。
物質がエネルギーにかわり得るとすると、今までの物質不滅の法則は、もはや適用されなくなる。前に述べた水素と酸素とが化合する場合についていえば、出来た水の目方は、もとの、水素と酸素との目方の和に等しい。従ってものの実質は不変である。というのが、従来の考え方であった。ところがこの化合の時に、爆発という形で、大きいエネルギーが出て来る。このエネルギーは、物質がその分だけ減って、それがエネルギーとなって現われたとすると、新しい考えに合う。そうすれば、内部エネルギーというような今まで曖昧だったものも、その本態が解明される。しかし実質はそれだけ減るので、物質不滅の法則は棄てなければならない。
どっちが正しいか、実験してみたら良いと思われるかもしれないが、それは従来の方法では出来ない。物質とエネルギーとの比率が、あまりにも大きい数なので、爆発の時に出て来るエネルギーくらいの分は、物質の目方の減少としては、非常に小さく、どんな精密な天秤をもって来ても、測定が出来ないのである。
ところが、原子物理学が非常に進歩したために、この頃では、分子や原子一つ一つの行動がわかるようになった。これは、間接にいえば、天秤の精度が、今までのものより、一億倍も、一兆倍も増したことになる。それで一グラムの物質が、9×1020エルグの勢力に転換されることが実証され、それで現実に、原子爆弾や、原子力発電が出来ることになった。
それで厳密にいえば、物質不滅の法則も、エネルギー不滅の法則も、ともに適用されないことになったが、「不滅の法則」そのものは、依然として残っている。一グラムの物質が消えると、9×1020エルグのエネルギーが出現し、その逆も成り立つのであるから、「物質+エネルギー」の量は、やはり不滅だということになる。
此処に一つ大切な問題がある。測定にかかるほどの物質が消え、巨大なエネルギーが出現するというような激しい現象について、本当は、消えた物質の量や、出て来た巨大なエネルギーの量を、精密に測定することは出来ない。むしろこれは理論的に出した比率を仮定して、現象を説明しているわけである。
結局、何か不滅のもの、或いは一定のものを求めて、それをものの本態としないことには、学問の組み立てようがない。それで、物質とエネルギーとの和を不変と見る。即ちそれを実体と見ることにしたのである。それも間違っているかもしれないが、それで原子力の利用が出来れば、充分満足すべきなのである。
現在の科学は、自然界の実体を、物質とエネルギーとの和であるとする。そういう渾然たるものが実体であって、それが、或る場合には、物質(もの)として現われ、或る場合には、エネルギー(ちから)として現われる。普通の変化、例えば薪が燃えたり、水が凍ったりする場合には、エネルギーに転換される物質の量は、あまりにも微量なために、物質だけで不変の法則が成立するように見える。しかし原子がこわされる時のような激しい変化では、物質の一部が消えて、エネルギーに変わることが、測定し得るくらいの量になる。しかしこの場合にも、「物質+エネルギー」の量は、不変である。
こういうふうに考えると、原子力だけが、特別な力でないことが、了解されるであろう。しかし目方のあるもの、即ち物質と、目方にはかからないちから、即ちエネルギーとが、本来同じものである。正確にいえば、その和が自然界の実体である、という発見は、人類の知識の一大進歩である。
こういうことが、実証的に示されたのは、近年の原子物理学の大功績である。しかしこういう考え方は、以前にもあったので、前世紀の末頃活躍した、ドイツの生物学者兼哲学者のヘッケルは、その主著『宇宙の謎』において、盛んに彼の一元論を説いている。彼はまず生物と無生物との一元論を論じ、さらに進んでは、物質不滅の法則と、エネルギー不滅の法則とは、融合すべきもので、この両者の融合したものが不滅であるとした。それが宇宙を全体としてまとめた、彼の一元論である。
仏教の方には全く不案内であるが、物心一如という言葉は、ずっと昔からそうである。この方は、ヘッケルほどはっきりした主張ではないかもしれないが、何か不変なものに実体を求め、その中に物(もの)と心(ものではないもの)とを含めているところに、最近の科学と一脈通じたものがある。対象は全くちがっていても、人間のものの考え方には、互いに一脈通ずるところがあるものらしい。
(昭和三十四年)