烈風と豪雨の夜だった。
「や、や、なんだ」みんなびっくりしてとび
「やあ孫七ではないか、おう孫七だ」ひとりがようやく相手を見わけてそう叫んだ、それがもういちどみんなを仰天させた、「本当に孫七だ、いったいきさまどうしたんだ」
「おれか、おれはどうもしないよ」
「どうもしないと云って、きさま今までこの中でなにをしていたんだ」
「
「あきれたやつだ、みろ、もう潰れかかっているぞ」
「……だから出て来たのよ」とかれは事もなげに云った、「つまり、寐ているところへ長屋が潰れると、あぶないからな」それからかれは大きな眼で宙を見あげ、手を額に当てながらおもむろに云った「雨だね」と。これがわが柿ノ木孫七郎である。
榊原家の孫七に対して、酒井
「おせきなさるな」寸度はびくともせずにおちつきはらって答えた、「合戦はこれからでおざる、いまから田へ踏みこんで泥まぶれになったところで、一刻はやく勝つわけでもおざらぬ、……織田どのの先陣は徳川、徳川のまた先陣は酒井、酒井のそのまた先陣はこの寸度でおざる、先陣のことは先陣におまかせあれ」つまりこれが石原寸度右衛門だった。
孫七郎と寸度右衛門はひとも知る無二の親友だった。孫七は顔の雑作がそうであるように、すべてが大まかでのんびりしている、決してせかせかしない、しかもそれがずぬけているので「孫七と
「石原寸度右衛門か」そう云ってようやく孫七郎はこっちを見た「実はいかにもわけのわからない事があってな、この四五日というもの考えあぐねているところだ」
「なにがそんなにわからないんだ」
「ここに箭が二本ある」かれはいつものゆっくりした調子で、一語ずつ念をいれてそう云いだした、「つまりこれは二という数だ、三でもないし、また一でもない、縦から見ても横から見ても二だ、なあ石原寸度右衛門、そうじゃないか」
「たしかに箭が二本、それがどうしたんだ」
「算法では二を二で割ると一になるという、この二本の箭をこう両方へ割る、いいか、一本をこっちへ、また一本はこっちへ、……ところが見ろ、やっぱり箭は二本ある、一にはならない、このとおりちゃんと二だ、これは算法が誤っているのかそれとも……」
「今日は話があって来たんだ」寸度は黙って二本の箭をそっちへ押しのけながら云った、「いや算法なんかうっちゃって置け、話というのは先日も申した嫁のことだが、おまえ考えてみたか、どうだ」
「……うん」孫七郎はみれんらしく二本の箭のほうへながし眼をくれながらうなずいた、「考えてみたよ、だが石原寸度右衛門、あれはなかなか大きな問題だ」
「なにが大きな問題だ、たかが嫁をとるかとらぬか、世間ありふれた話じゃないか」
「おまえはむやみに嫁をとれ嫁をとれと云うけれども、よく考えてみると、嫁をとるということは、つづめて云えば妻をもつことだ、つまり云ってみれば独り身でなくなるわけだ」
「そんなことはわかりきっているよ」
「いやそうじゃない、これはそう簡単なわけのものじゃないぞ、たとえば
「どうしてそう箭にちょっかいを出すんだ」寸度はその二本をひったくって隅のほうへ
「おまえは
「なにも云うな、今日おれが晩飯をするから来い、そのときまたよくわかるように話してやる、いいか晩飯だぞ」寸度は叩きつけるように云うと急いで出ていってしまった。
どうかして孫七郎を世に出してやりたい、それが寸度のねがいだった。かれはまた不運なめぐりあわせで、二十七歳にもなるのにまだいちども戦場へ出たことがない、いつも留守の番にまわされる、あたりまえの者なら是が非でもいちどやにどは出陣をねがい出るだろうが、かれは命ぜられたら命ぜられるとおり、おっとりなんの不平もなく与えられた役目をこつこつと守っている、寸度にはそれが
その日の
もう支度をしてあったとみえ、すぐに
孫七郎は、手にした
その明くる日、寸度右衛門はすぐ話をきめるために孫七郎をおとずれた。かれは昨日とおなじように箭を前に並べて思案していた。違うのは二本の箭が四本になっているだけで、坐り場所も、腕組みをした恰好も、昨日からじっとそうしていたもののように寸分も変っていなかった、寸度は
「またそんな面倒くさいことをやっているのか」
「こんどは倍にしてみたんだが」とかれは真剣な調子で云った、「つまり二を四にしてみたんだが、というのは四を四で割ると」
「まあいいからおれの話を聞け」寸度はいさい構わずそこにある箭を押しやり、むずと坐って孫七郎の顔をまともに
「どうだ孫七、気にいったか、ゆうべの佳麗お気にめしたかどうだ」
「やあどうも」孫七郎は
「文句はないだろう、とろけるような眼つきをしおって、こっちが恥かしくなったぞ、しかしむろん気にいれば結構、おれも嬉しいというものだ、貰うだろうな」
「
「だからこそ呼んで見せたので、おまえが正直にそう乗り気になって呉れればおれとしても張り合がある、そこで相談だが、貰うときまれば早いほうがいいだろう」
「それは早いほどいいさ石原寸度右衛門、なにしろおれもながいこと欲しい欲しいと思っていたんだからな、今日これからではどうだろう」
「おい待て、おまえあんまりあけすけ過ぎるぞ、いくらなんでもそれはひどかろう」
「そうか、そんなにひどいかな石原寸度右衛門」
「日頃の孫七にも似あわぬ、むろんそれほど気にいったのなら申し分はないが、こういうことには順序というものがあるからな、向うだってそれ相当に支度もあるし、そう猫の
「けれどもどうせ呉れる気になったのなら、なあ石原寸度右衛門、そう支度だの順序だのと面倒くさいことはぬきにしてあっさり呉れたらどうかね、おまえとおれとの仲じゃないか、それにまだほかに二頭も持っているんじゃないか、え、石原寸度右衛門」
「なんだほかにまだ二頭とは」寸度は首をかしげた、「おい孫七、ちょっと待て、なんだか話が少しへんだぞ、おまえなんの話をしているんだ」
「なんだってむろん背黒の話だろう」
「なに背黒だ、おまえ馬の……」寸度はまるで闇討ちをくったような眼をした、「冗談じゃないぞ孫七それは話が違う、さっきからおれが云っているのは縁談だ、嫁を貰うかどうかという相談をしているんだぞ」
「そんな
「それはこっちの云うことだ、よく聞けよ孫七、いったい昨日の娘は気にいったのかいらんのか、それからさきに返辞をしろ」
「昨日の娘……」こんどは孫七が首をかしげた、「それはいったいどの娘かね」
「どれもこれもない、ゆうべ見せた娘さ、晩飯のとき給仕に出た娘があるだろう、おまえとろけそうな眼で見ていたじゃないか」
「知らんぞそんな者は、そんな者がいたかね石原寸度右衛門、冗談じゃない」
「冗談じゃないじゃない、おれは怒るぞ」
「ばかなことはぬきにしよう」孫七郎は逆に詰め寄った、「順序があるの、猫の仔の支度だの、給仕の娘だの嫁だのと、おまえの云うことはわけがわからない、いいか石原寸度右衛門、おれはごたごたしたことは嫌いだ、すべて物事はきまりをはっきりさせなくてはいけない、はっきりと、いいか、そこで改めて
寸度右衛門は
「おれはもう帰る」
「帰るといって、背黒はどうなのかね」
「やらないよ」寸度は叩きつけるように云った、「背黒だろうが肚黒だろうがまっぴら御免だ、ながいあいだ欲しかったの、今日のうち貰いたいだの、どうも妙なことを云うと思った、おまけに顔まで赤くしやがって、……まさか馬とは……」まさか馬とは、と呟きながら、寸度はぷんぷんして帰りかけたが、ふとふり返ってどなるように叫んだ、「ついでだから云っとくが、おまえはいつもおれを呼ぶのに石原寸度右衛門という、なあ石原寸度右衛門、やあ石原寸度右衛門、たくさんだ、人の名というものはあまりきちょうめんに呼ぶとかえっておかしくなるものだ、まるでからかわれているような気さえするぞ、これからは名だけ呼べ、いいか孫七」
「むつかしいことを云うじゃないか」孫七は困ったように眼をしばしばさせた、「姓をぬきにして名だけ、……つまりただ寸度右衛門というんだな、寸度右衛門、ずんどえもん、寸度……なんだか谷間で大砲でも射っているようじゃないか」
寸度はなにも云わずにたち去った。
腹をたてて帰ったものの、寸度はむしろよけい孫七郎が好きになった。あれだけの娘を見せられても馬のことしか眼につかない、武士なら当然そうあるべきで、怒るほうがまちがっている、やっぱり孫七は孫七だと思った。――よし、こうなればなんとしてでも嫁を持たせなければならん、しかし問題はなかなか容易ではない、なにかうまい手段を考えないとただではうんと云わぬやつだ、なにかこれは必至という策はないかしらん。そう考えてしきりにその折を
遠江のくに
出陣の命をうけた石原寸度右衛門はすぐさま孫七郎の住居へとんでいった。孫七は
「どうした孫七、榊原どのでも兵を出すと聞いたが、いよいよおまえも出陣か」
「ああ石原寸度右衛門か」孫七郎はこっちを見てにやっとした、「いい
「そんなひまはない、おまえ出陣するのかしないのか」
「まだなにも聞かないがね、なんにも……」
「そんなのんきなことを云って、ちょっ、すぐいって願え孫七、おれもいってやる、こんどこそ出陣してひとはたらきするんだ、さあ一緒にゆこう」
「おまえ無理なことを云うな石原寸度右衛門」
「どうしておれが無理なんだ」
「だって考えてみろ」鎧の金具をゆっくりと拭きながら孫七は
「たくさんだ、たくさんだ孫七」本当にたくさんだというように寸度は手を振った、「それよりおまえ戦場へは出たいのか出たくないのか、武士としていちどは出陣したくないのか」
「怒りっぽい男だなあ石原寸度右衛門、おまえどうしてそうすぐに逆上するんだ」
「おれは……」そう云いかけて、寸度右衛門はとびついて
それから間もなく、天方城攻撃の兵馬は浜松を進発した。主将は平岩親吉、これに家康旗下の精兵をすぐって千五百余騎、天竜川に沿って上流へさかのぼり、東へ
浜松を出てから三日めの早暁、城兵の銃撃をもって合戦の火ぶたは切られた。石原寸度右衛門は大久保新十郎と共に大手の先陣をつとめていた。槍組百騎をひっさげ、
「これはどうも……」ふと頭の上でのんびりした声が聞えた、「あぶないもんだな」寸度はびっくりしてふり返った、するとついそこに、柿ノ木孫七郎が立っていたので、こんどは本当にびっくりした。孫七は
「おまえ来たのか、やっぱり来たのか孫七」
「ああ来たよ」孫七は見向きもしなかった、「つまり来たから、しぜん此処にいるわけだ」
「いつ来た、どうして、どこで追いついた、よく来られたな、どうしたんだ」
なにもかも一遍に訊きたい気持でそうたたみかけたが、孫七郎は返辞もしないで敵陣を見まもっていた。箭が飛んで来たり弾丸が土をはねかえしたりするたびに、かれは大きな眼を
「いやどうも」とかれは感に堪えたような声で呟いた、「これは危険しごくなものだ」
「なにがそんなに危険なんだ」
「なにがって石原寸度右衛門、おまえにはこれが見えないのか、むやみにこう弓箭だの、
寸度は眼を剥いた、そしてなにかどなろうとしたが、そのとき右翼から「城兵が討って出るぞ」と喚く声がした、「突っ込め」わっという
まさしく敵は城門をひらいて斬って出た。寄せ手の兵も鬨をつくって突込んだ、ゆるやかな丘の起伏と、かすかに青みはじめた草原のつづく
「これは面白いな」孫七郎は丘の上から見ていて、さも興ありげに呟いた、「どういうわけであんなに桜のまわりへ集るのだろう、もっと脇へ寄れば足場も広いのにさ、あれはつまり、合戦をするにも花蔭などのほうが景気がいいというわけかしらん」
そのひと合せが終るまでかれは丘の上から動かなかった。それはまださぐりいくさだった、敵は城のほうへひき寄せようとするし、味方は城兵をおびきだそうとする、いつでも決戦の含みはありながら、まだ相互にちからの度合をはかっている、そういう戦だった。だからぬきさしならぬ一瞬の来るまえに両軍は巧みにさっと相別れた。寸度右衛門も手兵をまとめて後退した、そしてさっきの窪地のところまでさがって来ると、そこの丘の上に立っている孫七郎を認めて駈け寄った。
「無事だったか孫七、けがはないか」
「けがだって……」孫七は
「なぜって、つまり、おまえいま斬り込んだんじゃないのか」
「斬り込みゃしないさ」
「じゃあ……」寸度は唾をのんだ、「じゃあさっきからそこにそうやって立ったままか」
「ああこうやって立ったままさ」
「どうして斬り込まなかった」寸度は

「ではもう合戦はおしまいなのかね、石原寸度右衛門」
「ばかなことを云え、合戦はこれからだ、今のはさぐりいくさというくらいのもので、本当の戦いはこれから始るんだ」
「そんならなにもそう、せかせかすることはないじゃないか」孫七郎はむしろたしなめるようにそう云った、「おれにはまだいくさの気合がのみこめない、それでまあ此処からようすを見ていたというわけだ、ものには順序があるからなあ」
寸度右衛門はさっさと陣へさがっていった。
その日は昏れがたにもうひと合せあった、孫七郎はそれにも出なかった、「どうもまだ合戦の気合がわからない」というのである、相手になると

「なんの真似だ、いいかげんにしろ孫七、きさまこの合戦のまん中で、ちょっ、そんなことをしていると
「ああ、石原寸度右衛門、おまえか」孫七はさも嬉しそうに叫んだ、「おれはおまえを捜していたんだ、ひじょうに大事なはなしがあるんだ、ちょっとそこへ掛けないか」
「突っ込め」と寸度は喚いた、「突っ込め孫七、きさま初陣だぞ、せめて
「それはわかっているよ、だが大切なはなしが……」
寸度はもういちど「突っ込め」と絶叫したまま、槍をとり直してまっしぐらに敵のなかへとびこんでいった。……孫七郎は、
した桜の花枝の具合をみた、かなり満足だったのであろう、やがて手をはたき、そこに置いた槍をとりあげると、ではひとつ……といった身ぶりで前へと歩きだした。前後左右どこもかしこも、斬りむすぶ敵味方の兵でいっぱいだった。ちょっと見るとどれが味方でどれが敵だかわからない、みんな眼を血ばしらせ歯をくいしばって、おのが相手と
「みんな忙がしそうだな」孫七郎はあたりを見まわしながら呟いた、「まるで手の
まったく相手がなかった、四方八方いたるところで戦っているが、孫七郎に注意を向けて呉れる者はみあたらなかった。できるだけ箙の桜を敵の眼につくように、からだの角度をいろいろ案配しながら進んでいったが、どうしてもわれこそと名乗りかける相手がない、これでは合戦にならないのである、孫七郎はほとほと困惑した、それで思いきって、
「やあやあ」と大音をあげて叫んでみた、「やあやあ……」
合戦はまさにたけなわだった、「やあやあ」ぐらいの叫びごえが聞える道理はない。だいたい戦場の
「やあやあ……」かれは困惑して、どうにもしようがなしに漠然と歩いていった、「弱ったなこれは、やあやあ、……やあやあ」
そのうちには相手があるだろう、誰かひとりくらいは突っかけてくるだろう、そう思いながら、なるべく箙の花枝の眼だつように、ずっかずっかと歩いていった。こうしていつか知らん白兵戦のなかを通りぬけ、やがてのことに敵の城門の前へゆき着いてしまった。冗談じゃないそんなばかなことが、……そう思ってつくづく見まわしたが、まさしく敵の城門の前に違いない、
「これはたいへんなことをした」孫七は思わずそう呟いた、「どうしよう……」
なんだかたいそう無作法なことをしでかしたような気持である、かれは
「やあやあ、これは榊原小平太康政の家来、柿ノ木孫七郎正吉なり、われと思わん者は」
すばらしい大音でそこまで叫んだ、するとそこで事態はいっぺんに変った。崩れたって来た敵兵と、それを追い詰めて来た徳川軍の先手とがこれを聞いたのである、そして城門の前に槍をあげて立っている孫七の姿を見た、味方は「おお孫七が一番乗りをしたぞ」と喚きあい、敵兵は「もう城を乗られた」と
天方城はそのとき搦手をも破られていた。寄せ手の挾撃がみごとに功を奏したのに反し、城将久野弾正は要害をたのみ過ぎて
石原寸度右衛門は城の本丸の塁のところで孫七を捜し当てた。孫七郎は石に腰をかけてひどく衒れていた、なにしろいま軍目附が来て、かれの一番乗りを功名帳につけていったところなのだから。いくら説明しようとしても誰も耳を
「なあ石原寸度右衛門」とかれはすっかり事情をうちあけて云った、「そういうわけで、おれはなんにもしやしなかった、ただ歩いているうちに城門の前へ来てしまったんだ、嘘も隠しもないただ歩いて来たんだ、誰かひとりくらい相手があるだろうと思ってさ……」
「それでいいんだ、それが戦なんだ」寸度はふと顔をひきしめて云った、「開戦の第一弾で
「それにしてもさ」孫七郎はうんとうなずいたあとからしかしいかにも具合が悪そうに云った、「この箙へわざわざ桜まで
して、なるべく眼につくようにくふうをしたのだぜ、ところが誰もみつけて呉れないんだ、……いったいどうして敵はおれをあんなに嫌ったのかね、いちどなぞはおれが『やあやあ』とどなったら敵兵のひとりがこちらを見た、こういう眼つきで……」かれはそういう眼つきをしてみせた、「こういう眼でこっちを見た、しめたと思った、この機をのがしてはならんと思ってもういちど『やあやあ』と叫んだ、するとその敵兵が『なんだ』とどなり返した、なんだと……とこれには言句に詰まった」「またどうして言句に詰まるんだ」
「どうしてだって」孫七は
「それはたぶん、なんだろう」寸度は面倒くさくなって遮った、「きっとその相手が孫七と伴れになるなということを知っていたんだろう」
「おまえもう怒るのか石原寸度右衛門」
「いいから立とう、馬寄せだ」そう云って寸度は踵を返した。
本当にそのとき
「おい石原寸度右衛門ちょっと待って呉れ、おれはおまえに大事なはなしがあった、おれは嫁を貰わなくちゃならないんだ」
「なに、なんだって孫七」と寸度はびっくりしてふり返った、「嫁がどうしたって」
「嫁を貰うんだよ」孫七は熱心に云った、「つまり誰かおれにふさわしい娘があったら、それを女房にして身をかためたいんだ、つづめていえば妻帯するわけだ」
「それは本当か」寸度は駈け戻って来た、「それは本心か孫七、本気でそう思うのか」
「本気だとも、それともおまえまだ早いとでもいうのかね」
「なにを云うものか、早いどころかおそすぎるくらいだ、しかしまたどうして、急にそんな殊勝な気持になったのかい」
「おれはたまげた」孫七はゆらりと頭をゆすった、「戦場がこんなに危険なものだということは知らなかった、初めて見てたまげたんだ、これじゃ危ない、戦場がこんな危険なものだとすると独身ではいられないじゃないか」
「おまえまた面倒くさいことを云いだすんじゃないのか」
「面倒くさいことはないさ、物の道理を考えてみればわかる、だってそうだろう、独身ということは妻がないということだ、してみれば、順序として世継ぎの子もないという勘定になる、そうすれば、おれがもしこのつぎ戦場に出て、武運めでたく討死をした場合に、いったい誰が柿ノ木の家名を継ぐと思うのかね……」
寸度はもうそこにいなかった、我慢を切らして駈けだしていた。孫七郎はそのうしろ姿を見送りながら「おい石原寸度右衛門」と呼びかけた、「おまえはなしはわかったのか」すると寸度はふり向きもしないで、「わかった」と叫び返した、嫁のことひきうけたよと。孫七郎はいかにも憐れみに堪えないという眼つきで見やり、ゆっくりとこう呟いた。
「あれもこらえ性のない男だ」