「あれはなんだ、衣類のようではないか」
「
「はっ」
供の者が
「おい、それを持って行っては困るぞ、持主は此処にいるんだ、返して
「……誰かおります」
加兵衛が
「
重太夫が大声に叫ぶと、若者はあっと大きく眼を
――
そう思いながらなお
「
「
「
念を押して置いて重太夫は登城した。
彼が役部屋へ入ると、既に出仕していた

「どう申して来た、矢張りいかぬか」
「よほど奔走した様子でございますが、
「……やむを得まい」
重太夫はふっと天井を見上げるようにしたが、「……では折返し
「お言葉ではございますが」
伊右衛門はそっと眼をあげながら云った。
「お貸下げ願いの事は、公儀に於てお
「……いま申した通りだ、申した通り書いてやればよい」
「然し買付け
「金は送ると申しておる」
重太夫は不必要なほど大きな声で
延宝八年から天和元年、二年とひどい天候不順で、奥羽一帯は五穀不作が続き、同三年の春からは処々に飢饉状態が現われ始めていた。……
――お貸下げを願う他に策はない。
老職たちの望みはその一点に懸っていた、そして
監物はまだ二十九歳の青年だが、矢押家は家老職たる家柄で、現国老の
――出来る限り努力を致します。
と固い決意を見せて出府した。
重太夫はそのときの監物の眼をよく覚えている、そして必ず任務を果して来て呉れると信じている、だから蔵屋敷へも自信を持って買付けの督促が出せたのだ。
「唯今あがりました」
伊右衛門が
「どうした、分ったか」
「はい、……それが」加兵衛は
重太夫は水面に浮いていた
「なにか申しておったか」
「何処の流も干あがっているのに、お濠だけは満々と水がある、遊ばせて置くのは勿体ないから水練をしているのだと申しておりました」
「不届きなことを」
重太夫は烈しく眉を寄せたが、他言を禁じて加兵衛を
矢押梶之助は二十五歳になる。兄の監物が明敏寡黙な老成人であるのに、彼は少年の頃から我の強い乱暴者で、兄弟の亡き父監物は口癖のように、梶之助は矢押一家の
――仕様のない男だ。
重太夫は幾度も舌打をしながら
――監物どのの留守に間違いがあってはならぬ、なんとかしなくては。
然し事務は寸暇もなく忙しかった、お救い米が既に不足しかかっているので、一日も早く補充して呉れと
午後からお救い小屋を見廻りに出た、五ヵ所に設けた
――もう暫くの辛抱だ、我慢して呉れ。
――もう直ぐ大坂から米が来る、そうしたら存分に喰べられるぞ、辛抱して呉れ。
彼は祈るような気持で心にそう呟きながら見廻って行った。
その翌朝であった。
例の如く早出仕で、城中内濠の土堤まで来た重太夫は、昨日と同じ場所に、同じ衣服大小が、まるで
「ちょっと此処に待っておれ、誰かまいったら気付かれぬように
そう命ずると共に土堤へ登って行った。
水際の石垣の上に、
――
重太夫はそう思いながら、なお暫く黙って見ていると、やがて若者は静かに両耳へ唾を含ませ、石垣を伝いながらずぶりと水の中へ入って行った。……正に矢押梶之助である、むろん彼の方では、重太夫が見ていることなどは知らない、巧に濠の北側の方を泳ぎ廻っていたが、やがてひょいと身を
三度めに浮上ったとき、
「なにをして居られる、矢押どの」
重太夫が鋭く呼びかけた。……梶之助は振返って、慌てて潜ろうとしたが、もういちど烈しく名を呼ばれたので観念したか、ひどく具合の悪そうな泳ぎ振りで戻って来た。
「早く上って来られい」
「……唯今」
急きたてられるのを構わず、悠々と上って来た梶之助は、其処でまた髪毛を押絞ったり、耳の水を切ったりしている、……重太夫は斜面を下りて行った。
「場所柄を
「……はあ」
「世間の有様を考えたら、
「まことにどうも」梶之助は低く頭を垂れた、「早朝ではあり、人眼にはつくまいと存じて」
「馬鹿なことを申されるな、当お城の内濠構えは、他国のどんな城濠とも違って重要なものだ、それゆえ水の深さ、落口の造りなどは秘中の秘にされている、そのもとの家柄は藩の老職、それらの事情を知らぬ筈はござるまい」
「……はあ、まことにどうも」
「監物どのの留守中、斯様な事が役向へ知れたらどうなさる。家中一統、領民の末に至るまで困窮と闘っている時だ、我儘勝手も程にせぬと申訳の立たぬ事になり申すぞ」
黙って頭を垂れている梶之助を暫く
梶之助はそれを見送ってから、大きな眼をもういちど濠の方へ振向けた。……そして水面の一部を
屋敷へは帰らず、城外へ出た彼は、
吉井家は土着の豪農で、領内随一と云われる大地主だし、その屋敷へはしばしば藩主が
来つけている屋敷で、殊に出入りの自由だった梶之助は、裏門から入って隠居所の方へ庭を横切って行った。……すると
「おいであそばせ」
と
娘はそっと男の後姿を見送った。十七八であろう、どちらかと云うと小柄なひき
「ございましたか」
「有った、それも二ヵ所は
前庭に赤松の林を配した簡素な住居である。主人幸兵衛は膝の上に両手を揃え、病身らしい痩せた体を
「此処に一ヵ所、それから此方に一つ、かなり強く噴出ているようだ」
「そうかも知れませぬ、一の濠から四の濠まで、例年より水位は多少低くなっても、あれだけの水量が絶えぬところを見ますと、……噴口から出る量は相当でございましょう」
「それで
「急場のことで木さえ選みませんければ、わたくし共へ貯えてあるだけでもどうやら間に合おうかと存じまするが。……然し矢押さま」幸兵衛はふと眼をあげて云った、「今になって
「出る、お許しは必ず出る」
「お城というものは、石垣の石一つ動かすにもむつかしい掟があると伺いますが、この樋掛けは大切なお濠を干すのも同様。わたくしにはどうもお許しは出まいと考えられてなりません」
「それは是までも繰返して申した通り、必ず拙者が引受ける、大丈夫お許しは出る。……だから幸兵衛どのは出来るだけ早く樋作りを始めて貰いたいのだ」
幸兵衛は
「宜しゅうございます、直ぐ人手を集めて仕事を始めると致しましょう」
「それから、表向お許しの出るまでは、なるべく仕事も人眼につかぬように頼む。こういう事は先に洩れると
「承知致しました、わたくし自分で差配をすることに致します。……若しこの樋掛けが首尾よくまいりますれば、百姓共も他国へ逃げようなどという考えは捨てることでございましょう」
幸兵衛の声は哀訴するような響を持っていた。
いま彼が云う通り、城下
――もう駄目だ、北見の田もいけない。
――幾ら苦労してもこの土地では無駄だ。
みんな絶望してそう思いはじめた。
――もっといい土地へ行こう、農作に安全な土地へ行こう。
梶之助は幸兵衛からその事情を聞いた。十余ヵ村の農民が結束して退国するような事が、若し実現したとしたらどうなる、更にそれが伝わって領内到るところに波及したとしたら、……恐らく拾収のつかぬ騒動になるだろう、どんな方法を
「粗茶でございます」
ほどなく着替えをした加世が、静かに入って来て茶と菓子とを勧めた。
「これは珍しい」梶之助は娘の方へは眼も呉れずに、無造作に手を伸ばして菓子を
「砂糖漬けの
「お口には合いますまいが」幸兵衛は笑って娘を見やりながら云った、「加世めが自慢の手作りでございます、はしたない物でついぞお出し申したこともございませんが、こんな物も斯様な折にはお口汚しにはなりましょう」
「是が拙者には子供時分からの好物だった。武家は貧乏なものだから、砂糖漬けの菓子などは中々口に出来ないものです」
「お口に合いましたら、別にお屋敷へお届け致します、娘はこのような事が好きで、いつも手まめに作っておりますから」
「それは
「そう仰有るほどの物でもございませんが」
走って来る人の
「お客さまにお使いでございます」
「なにか急な用か、平馬」
「江戸表より急使でござります、方々お捜し申しました、直ぐお帰りを願います」
「兄上からの使者か」
「……はい」若い家士はつと近寄り、ひどく震える声で
「なに! 兄上が御自害」
梶之助の大きな眼が
直ぐに幸兵衛の許を辞して出た彼は、烈しい炎天の道を夢中で急いだ。……いきなり真向を殴りつけられたような気持である、然し予想しなかった事ではない、出府して行く時の兄の眼が、どんな決意を示していたか梶之助は忘れはしない、兄の気質の隅々まで、
屋敷の中は混雑していた。
国家老であり、
「何処へ行っていたのだ」塩田外記は銀白の眉の下から鋭く睨めつけながら、梶之助が坐るのも待たずに叱りつけた。
「留守を預る責任の重い体で、いつもそう出歩いていてどうするのだ、おまえが気楽に遊んでいるあいだに、兄監物は江戸表で切腹して果てたぞ」
「それでお役目はどう致しました、お役を果して死にましたか」
「役目が果せれば切腹には及ばぬ」
「……では、では」
「
「……申上げます」伊十郎は手をついて云った、「旦那さまには御出府以来、さまざまに御苦心をあそばしましたが、公儀の御意向は中々以って動かず、恐れながらお上にも、もはや諦めよと再三仰せあった由に承わります。……それでも旦那さまは望みを捨てなさらず、大老
「
「死ぬことはなかった」外記が
「惜しい人物を殺しました」
外村重太夫が声を震わせて云った。
みんな
梶之助の頭は舞狂う光の渦でいっぱいだった。兄がどんな気持で死んだか、彼には
――兄上、お見事でございました。
梶之助は心で泣きながら叫んだ。
弔問の客がすっかり帰り去ったのは、もう
二人は仏間へ入って行った。仏壇には
「お仏前が寂しゅうございますのねえ」
「…………」
「お花を上げたいのですけれど」
梶之助はそっと嫂の後姿を見上げた。
「まだいけないのだそうでございますの。……お通夜の済まぬうちは、お花を上げるものではないと申します」
落着いた静かな
監物の死は大きな波紋を描きだした。
借款が失敗に終ったとすれば、差当って糧米の買付けが出来なくなる。唯一のたのみを絶たれた家中の狼狽もひどかったが、早くもそれを伝え聞いた領民は騒然と動揺し始め、一刻も
――若しそれが事実なら一大事だ。
――
――然しどうしたら喰止められるか。
国老塩田外記はじめ、全重職が城中黒書院に集って緊急の協議を開いた。……だが事ここに至ってなんの策があろう、今日までに有らゆる手段を尽して来た。唯一つの希望が絶たれたという抜差しならぬ感じが、誰の頭にも重たくのしかかっていたのである。
同じところを堂々巡りするだけで、協議は直に行詰りへ来た。
「事態はさし迫っている、なにか手段はないか」
外記は焦り気味に声を励ました。
「捨置けば大事に成るのだ、然もそれは
――外記がそう云いながら、手にした扇子を荒々しく置いたとき、
「恐れながら申上げたい事がございます」と矢押梶之助が初めて膝を乗出した。……彼は亡き兄の跡目として協議の席へ出ていたが、自分の発言すべき最も良い機会を掴むためにそれまで黙って待っていたのである。
「……申してみい、なにか思案があるか」
「唯一つだけございます」外記の不快そうな眼を見上げながら、梶之助は確信のある調子で云った、「十余ヵ村の農民が結束して退去しようとしますのは、ただ飢餓に迫られている、糧米が無いというだけの理由ではございません。彼等は水が欲しいのです、青い稲田が欲しいのです。幾周年めかには凶作に見舞われ、その度に手も足も出せなくなるというこの根本をどうにかしたいのです、この点に新しい的確な希望を与えない限り、例えいま余るほど糧米を恵んだところで、彼等の決心は動きは致しません」
「それでどうしろと云うのか、この地方が幾周年め毎に凶作に見舞われるのは事実だ、然しそれをどうする事が出来る、……百姓たち自身に手も足も出せぬ事が、我々の力でどう解決出来るのだ」
「いま差迫っての問題を申上げます、内濠の水を彼等に与えて下さい」
外記も列座の人々も、言葉の意味を疑うように、振向いて一斉に梶之助の顔を見た。
「内濠の水を、どうせいと云うか」
「城壁の一部を壊して樋を通し、先ず北見村の田へ水を引くのです、すれば」
「馬鹿なことを申す!」外記が膝を打って烈しく遮った、「城壁へ樋を通して内濠の水を干せと? 其方それを正気の沙汰で申すのか、梶之助、如何に其方が物知らずでも、武士として城縄張りの重大さを心得ぬ筈はあるまい」
「如何にも、よく存じて居ります」
「知っていてなぜ左様なことを申す、城壁の石一つ動かすにも、公儀のお許しを得なければならぬ厳重な掟があるのだぞ、殊に当城の内濠は格別のもので、いざ合戦の場合にはこうと、軍略のうえに大きな役割を持って居る、その大切な濠へ樋を通し、水を干すなどという馬鹿な事が出来ると思うのか」
「例えまた矢押どのの申す通り」外記の怒りを
「いや水の
人々は口を揃えて非難し始めた。
向田の城は高城である、丘陵の上に在って
「御意見はよく分りました、然しお待ち下さい」
梶之助は些かも確信の動かぬ調子で、非難の声を遮りながら語を継いだ。
「仰せの通り城縄張りは重いものです、それは
外記は唇をひき
「ならん。……」
「然しその他に手段がございますか」
「それとこれとは別だ」
食いつくような梶之助の眼から、外記は静かに顔を
「繰返して申すが、濠の水は
梶之助はぶるぶると拳を震わせた。
必ず通す、通さずには置かぬ、確信を以てそう考えていた事が徒労に終った。此処まで来れば彼の
下城して内濠の土堤へかかった時である。
「矢押どの、……矢押どの」
そう呼びながら足早に追って来た者があるので、振返ると外村重太夫だった。急いで来たとみえて、肌着を徹した汗が
「先日は詰らぬ小言を云って、お詫びを申さなければならぬ。なにも知らなかったのだ、さぞ笑止に思われたであろう」
「そう仰せられるのは……」
「水練の意味がはじめて読めた、他の人々は知らぬが、拙者は御意見に感服したのです、それでお詫びがしたくてまいったのだが、……矢押どの、濠の水量は云われた通りでござるか」
「拙者は前後幾度も底へ
「どうしてお調べになった」
「千切った紙片を水面に撒きました。噴口の上に当るところは、浮いた紙片が円を描きながら散大します、それで噴口の位置も分り、また水の深さと、水面の紙片の散大する速さを考え合せて、
紙片を飛ばしているのを見て、ただ
「拙者は半月ほどまえに、農民たちが退国しようとしている事実を、北見村の吉井幸兵衛から聞きました。そしてそれを防ぐ手段はこうする他にないと思ったのです。然し兄の人望と
「……矢押どの」
重太夫は燃えるような眼で、梶之助の顔を見上げた。……二人は暫く互いの眼と眼を見合せていたが、やがて重太夫は呻くように云った。
「後の事は引受けましたぞ」
「どうあそばしました」
その夜である。……突然訪ねて来た梶之助の表情を見て、出迎えた吉井幸兵衛ははっと胸を衝かれた。
「いけなかった」
「矢張り、そうでございましたか」
「それで別れに来た」
馬を飛ばして来た梶之助は、片手に持った樋をぐっと突出しながら、然し
「幸兵衛どのは直ぐに人数を集め、樋掛けの用意をして馬場上まで出て貰いたい」
「……承知致しました」
梶之助がなにをしようとしているか、幸兵衛には分り過ぎるほど分った。
「誰にも迷惑は掛けぬ、始末は拙者が引受けるから、安心して仕事に掛るよう皆に伝えて呉れ、あとの事は勘定奉行が旨くやる。……では急ぐからこれで」
「お待ち下さいまし」
直に去ろうとする梶之助を、幸兵衛は
「是からお働きなさるのにいい物がございます、お手間はとらせません、ひと口召上っておいで下さいまし」
「……うん」
幸兵衛の眼を見て、梶之助は苦しそうに頷いた。……幸兵衛は次の部屋へ入ったが、直ぐに娘の加世を伴って現われた。娘はよろめくような足取で縁先へ出ると、……盆の上に載せた琥珀の杯を、静かに梶之助の方へ押進めた。
「手作りの杏子の酒でございます」
「……
梶之助は手を伸ばして杯を取った。
娘は思詰めたように、
――いつかは。
いつかは娘を妻と呼ぶ日が来るだろう、そして別にそれは困難なことではないと思っていた、然し、今はもうそれも夢である。
――
梶之助はそう呟きながら、杯を
「
「……
加世は肩を震わせながらうち伏した。……
――本望だ、あの方は加世の心を知っていて下すったのだ、女と生れた甲斐があった。
去って行く梶之助の
転げ落ちる石、崩れる土砂、闇を
「もうひと息だ、これだけ切ればあとは水の勢いで崩れる、みんな頑張ってくれ」
梶之助はひそめた声に力を籠めて云った。するとその時、二の曲輪の方から、提灯の火と人影がふらふらと此方へ馳けつけて来た。……塩田外記であった。
「梶之助、梶之助はおらぬか」
「此処におります」
「其方、……なにを、なにをしおる」
外記は
「協議の席でならぬと申したに、こんな馬鹿な事をしおって、其方、向田藩三万石を取潰すつもりか」
「それはおめがね違いです御家老」
梶之助は微笑を含みながら云った。
「将軍家の御威勢を以って築いた江戸城も、つい先年土地の緩みで、多くの石垣が崩れたではございませんか、このお城の石垣も、ながい
「止めい、問答無用じゃ、止めぬと容赦なく取押えるぞ」
「……みんな急げ」
梶之助は家士たちの方へ叫びながら、大きく一歩ひらいて云った。
「御家老、……繰返して申しますが、拙者どもは崩れた石垣を積直しているのです。僅な人手ゆえ或は防ぎ切れず、内濠の水を切落すかも知れません、その罪は、……矢押梶之助の腹ひとつで申訳を致します、後で石垣を修築するときには、元から『樋』が掛っていたという事実を忘れないで下さい」
「待て、待て梶之助」
「江戸城の石垣も崩れる、向田の城の石垣も崩れる、自然の力は防ぎきれません、これで公儀への申開きは立つと思います」
「切れた、切れた!」
という家士の絶叫を聞いて、振返った梶之助の眼に、いきなり天空からのしかかるような、恐ろしく大きな黒いものが見えた。
「危い! 逃げて下さい!」
梶之助は力任せに外記を突飛ばした。
どうっという凄じい地響きと共に、石と水と土とが一緒になって、その強大な翼を力いっぱい拡げながら崩落して来た。……頭から泥水を浴びて、危くも逃げ延びた塩田外記は、その崩落する濁流と石垣の直下に、梶之助の逞しい体をはっきり認めたように思った。
――兄も弟も。
外記は奔流の暴々しい叫びを聞きながら、呆然と心に呟いていた。
――兄も弟も、……こうと決めると後へ
梶之助は崩壊する石垣の下になって死んだ、そして再びその石垣が築上げられたとき、其処には城外へ引く大樋が掛けられていた。……梶之助の予想はかなり正確で、その水は北見村の十町田を生かし、更にその附近の田地を広く潤すことが出来た。考えようによれば、無論それは局部的な僅な効果でしかない、然し、……そういう場合には城濠の水も切ろうという、藩政の方向を示した事が重大であった。
農民たちの退国騒ぎは鎮った、事実をもって示された政治の方向が、彼等に新しい希望を植付けたのである。……それから幾春秋、人々は「矢押の樋」と呼ばれる樋口の畔で、一人の美しい尼僧が静かに